川内村と隣接する富岡町。無人となった町中をイノシシが歩いていた(2013.11.1)
牛舎に広がる光景に言葉を失う
東京電力(株)福島第一原発の事故後、川内村は隣接する富岡町から避難してきた住民と共に郡山市へ全村避難することを決定したが、井出淳さん(35)は両親と自宅にとどまり続け、乳牛約50頭の世話を続けていた。
川内村では井出牧場のほかに2戸の酪農家が乳牛を飼養。うち1戸は福島第一原発から半径20km圏内だったために、事故直後から避難せざるを得ない状況だった。20km圏内が警戒区域として立ち入りが禁止される直前、井出さんは知り合いの和牛農家へ乾燥ロールの受け取りに出掛けた帰途、この誰もいなくなった牛舎へ震災後、初めて足を運んだ。牛たちが生きているのか、そのことがずっと気がかりだったのだ。しかし、そこで見た光景は言葉を失う凄惨なものだった。牛たちは牛舎内でつながれたまま息絶え、空気が抜けた風船のように痩せ縮んだ姿で横たわり、骨と皮だけになっていたのだ。牧場主への同情と同じ牛飼いとしての悔しさ。変わり果てた牛の姿を見たことで「俺は最悪どうにもなんなくなっても最後まで震災前と同じことをやろう」と井出さんは強く思った。だからといって村に残る不安と恐怖は消えることはなく、家族間の会話もしぜんと少なくなっていった。
人に会いたい
井出さんによると、当時村に残っていたのは十数人で、その中には寝たきりの高齢者も含まれていたという。役場機能は避難先である郡山市内の複合コンベンション施設「ビックパレット」に移され、村に残った者への行政サポートはほとんど行われることがなかった。そのような状況の中、避難している住民の要望に応える形で、村の消防団に属していた井出さんは仲間と夜間の自主パトロールを始めた。住民がいなくなった地区で空き巣狙いが頻発し、川内村でも被害が報告されていたためだった。
「消防団員が回れるならパトロールしてくれないかと頼まれ、自分を含め、たった3人だけだったけれど『残っている人たちでやるべ』という話になった。それから夜の牛舎作業を終えると詰め所に集まり、消防団車の赤色灯を回しながら村内を走っていました。俺自身、誰かの顔を見ない と気が狂いそうだったので、パトロール最中に車内で交わした会話に随分助けられた。自分にとっても気を紛らわすために良かったんですよ」
井出さんは30km圏内に屋内待避指示が出ていたころ、同じく避難をせずにとどまり続けていた浪江町津島地区の酪農仲間を訪ねている。川内村から津島地区までは車で約1時間の距離だが、浪江町へ近づくにつれてすれ違う車が少なくなり、川内村よりも”人がいない”印象を強く感じたという。津島地区の酪農家は原発事故前から牛の話ができる身近な改良仲間であり、就農前に勤めていた酪農ヘルパー組合で世話になった人たちでもあった。訪ねた先々で交わした会話は決して明るい内容ではなかったが、彼らと会ったことで井出さんは励まされ、仲間の存在を心強く感じた。
廃乳を承知で牛群のコンディション維持に努める
2011年4月22日。福島第一原発の半径20〜30km圏内に出されていた屋内待避指示が解除となり、井出さんは少し気持ちが明るくなったという。しかし一方で、津島地区は放射能汚染によって居住禁止措置である計画的避難区域となり、1ヶ月をめどに避難せざるを得ない状況となった。川内村と津島地区は同じ30km圏内にあったが、事故発生から数日間の風向きによって明暗が大きく分かれたのである。
32haの草地を所有し、粗飼料はほぼ自給できていた井出牧場。集乳車がやって来ることはなかったが配合飼料の配達は行われため、餌不足に陥ることはなかったという。農水省からは出荷困難に伴う強制乾乳の指導が出されていたが、井出さんは廃乳を承知で震災前と同じ量の餌を与え、牛たちのコンディション維持に努めていた。搾乳頭数は40弱。それでも乳量は大きく下がり日量700kgに届くかどうかだった。原発事故当初は絞った乳をバキュームカーにくみ直して草地に廃棄していたが、次第にわずかに開けた排乳コックから1日かけて排水溝へ流すようになった。許される行為ではないと認識はしていたが、牛舎からかなり離れた草地へ毎回運んで廃乳する気力が続かなかった。「放射性物質を敷地外へ大量へ放出した東京電力はどうなんだ。もっと悪いものを出しているじゃないか」そんな思いもあった。環境に余計な負荷はかけたくなかったので、牛舎脇を流れる川が白くなることだけは避けた。
県内に出されていた原乳出荷制限は会津地方から解除が進み、4月中旬には中通りといわき市でも集乳が再開され、4月23日からは沿岸部の新地町や相馬市でも集乳が行われるようになった。出荷制限解除は県による1週間置き3回のモニタリング検査を経て、当時の暫定基準値を超えた放射性物質が連続して検出されなければ解除となった。解除には県のモニタリングが必須だったため、井出さんは仲間や組合の助けを得ながら県にモニタリング検査の実施を求め続けていた。5月3日には計画的避難区域の山木屋地区を除く川俣町や南相馬市の一部でも集乳が再開され、出荷制限は30km圏内を残すのみとなった。
道路脇の仮置き場に積まれているフレコンバック。中身は基準値を超えた牧草ロール。福島県だけでなく宮城県や岩手県でも酪農家や自治体が、給餌不可となった牧草ロールの処理に頭を悩ませている(2013.11.1)
放射性セシウムに汚染された牧草
県産原乳の出荷制限解除措置は進んだものの、県内外の酪農家や関係団体は原発事故による深刻な問題に直面することとなった。
福島県が5月9日に県内44カ所で採取した牧草のほぼ全てから放射性セシウムが検出され、未経産牛を除く乳用牛と、出荷を15カ月ほど先に控えた肥育牛への牧草利用と放牧が自粛となったのだ。その後の検査で会津地方を中心に早期自粛解除となった地区もあったが、牧草地の放射能汚染は複雑な広がりを見せ、県境を越えて各県共通の課題となっていった。
季節は春を通り過ぎ、夏の陽射しを感じるほどまで進んでいた。6月になって飯舘村や津島地区で飼われていた経産牛の移動が認められると、井出さんは仲間の牛を数頭引き受け、自分の牛のように大切に扱った。津島地区や飯舘村の酪農家も井出さんと同じく、孤立覚悟で最後まで牛舎にとどまって牛の面倒を見ていたのだ。預かった牛に酪農を断念せざるを得なくなった仲間の思いが重なった。
6月10日。川内村や田村市、南相馬市に出されていた出荷制限が解除となり、井出牧場でも集乳が再開された。集乳のためのタンクローリー車が井出牧場へ来たのは3カ月ぶりのことで、井出さんは集乳作業の一部始終を見守り、目盛りの針が止まるまで流量計を見続けていたという。
「バルククーラーからポンプで乳が吸い出されていく音がこんなにもいいものだとは思わなかった。やっと日常に戻った、これで何とかなりそうだと確信できた日でしたね」
この日の出荷乳量は700kg。出荷解除から約1カ月で1t超まで日量出荷乳量を回復し、2カ月経たないうちにこれまでの最高日量1万3千kgを記録した。
井出牧場では牛舎作業や繁殖を井出さんが行い、牧草地の管理や手入れを父の久人さん(59)が担当していた。2011年は一番草だけを刈り、ロールラップサイレージに調製したがモニタリング検査の結果、全て”給餌不可”の扱いとなった。川内村の数カ所で坪刈り採取した牧草から基準を超える放射性物質が検出されたためだった。未検出の草地も一部あったが、川内村全ての牧草が対象となった。ロールは放射性物質扱いになり、フレコンバッグと呼ばれる大型の袋に一つ一つ詰められ、自宅から離れた道路脇の仮置き場に置かれた。その数は井出牧場だけで200袋を超えた。
川内村中心部や住居がある地区は奇跡的に放射線汚染を免れ、数値だけをみれば避難先となった郡山市内の方が高いくらいだった。生活する上での外部被ばくの影響はほとんどないレベルと言えるが、草地として利用されている山の稜線だけは違っていた。放射性物質を含む風や雲は人家のある谷へは降りて来なかったが、川内村上空を通過する際に一部が稜線に降下し、草地や山地を汚したのだ。
草地となっている山地は急峻な地形で、少し掘る返すだけで大小さまざまな石が出てくる土地でもあった。増え過ぎたイノシシの影響もあり、牧草と比べ放射性セシウムを吸収しずらいと言われているトウモロコシへの転作は現実的ではなかった。
井出さんは親子で力をあわせ、家族だけで草地の除染を2012年に試みている。しかし2013年に収穫された牧草から再び基準値を超える放射性物質が検出される結果となった。井出さんは語る。「牧場はなんとかなる見通しが立ったので、あとは草地だけ。ここは酪農をやるには一番いいところだと思っているで諦めたくはないんです。夏場はトラクタに乗って草地で仕事すると風が気持ちいい。働いている充実感が得られる。震災前に戻してくれるんだったら一番いいですけど、こうなってしまった以上はそうも言ってられない。なんとか戻す方向でがんばるしかないです。草地がそのための第一歩だと思っていますから」
*年齢は当時(記事執筆は2013年12月)