01 − 原発が危ないなんて思いもしなかった

浪江町の中心部。倒壊した家屋が地震の激しさを物語っていた(2011.4.20)

酪農で先祖代々の土地を守ってきた

2011年3月11日午後2時46分、宮城県牡鹿半島沖合を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生。

福島第一原発から北西方向へ約14km離れた福島県浪江町立野の酪農家・佐藤克芳さん(63)は、堆肥をまく準備作業に追われていた。

「ちょうどトラックから降りた直後に揺れが始まり、まるで海のように地面が波打ち始めた。瓦が落ちる音に混じり、機関銃というか花火を連続で打ち上げるような地響きが響き、揺れているあいだは草地にしゃがみ込むことしかできなかった」

浪江町は震度6強を観測。揺れは強弱をつけながらしばらく続き、道路は至る所で陥没やひび割れが起き、橋は接合部が大きくずれてしまっていた。

「これはどうしようもないとホイールローダーに乗って畑から家へ戻ると、妻(典枝さん)が『堆肥場が水浸しだ』と言ってきた。山にある水道が破裂し川みたいになっていたんだ。その日は停電で牛舎作業もできず、牛に草だけを与えた後、余震が怖かったので1台のワゴン車に家族全員(8人)が乗って一晩を過ごした。カーラジオが唯一の情報だった」

佐藤さんは当時、乳用牛50頭(うち搾乳牛が31頭)を飼養していた。高校を卒業後、23才で父親の跡を継いで就農した佐藤さんは、1971年に後継者無利子融資で小さい牛舎を建て、少しずつ規模を拡大させながら40年以上この地で酪農を続けてきた。

浪江町は東西に長く、太平洋に面した平たん部に役場や商店などが集まっている。町の南側は福島第一原発のある双葉町と隣接し、西方に阿武隈高地が連なる。町内の酪農家は町の中心部から西へ25kmほど離れた津島地区に9戸、平たん部の苅野地区には佐藤さんを含めて6戸がいた。2011年1月末の段階で、津島地区では育成・初妊・経産牛をあわせて289頭、苅野地区では196頭の乳用牛が飼養され、それぞれの規模は大きくないものの、ほとんどが2、3代と続く家族経営の酪農を営みながら先祖代々の土地を守っていた。

同日午後7時、政府は”原子力緊急事態宣言”を発令。この宣言は「原発境界付近で毎時500マイクロシーベルト以上の放射線を検出、臨界事故が発生、非常用の原子炉冷却装置が作動しなかった場合」などに発せられ、政府は宣言の1時間半後、福島第一原発から3km圏内の住民に対して避難を命令した他、3kmから10km圏内の住民に対し「屋内退避」を指示した。

激しい揺れの影響で外部電源が断たれた福島第一原発は、最初の揺れから40分後に押し寄せてきた大津波によって非常用発電施設が水没し、全交流電源を喪失する事態となっていた。

なんか避難したほうがいいみたいだよ

翌12日の午前5時45分。政府は避難指示を拡大し、屋内待避だった10km内を避難指示へと変更する。

苅野地区は電気が復旧せず、佐藤さんは夜明けを待って、友人のところへ発電機を借りにでかけた。

「後になって発電機を借りた友人の息子夫婦と孫が津波で行方不明になっていると聞いた。浪江の沿岸部は津波で壊滅状態になってしまったけれど、当時はそこまで頭がまわらなかったし、避難にしたって街頭の防災無線は鳴ってはいたけれど、全く耳に入らなかった」

やっと借りることができた発電機を牛舎の配電盤へ接続して搾乳を終えると、地区の民生委員と区長が佐藤さんを訪ね「なんか避難したほうがいいみたいだよ」と伝えにきた。

「区長たちが『お前のところは牛がいるから逃げられないもんな』と話せば『ほうだほうだ』と相づちを打つのんきな会話だった。2人とも切羽詰まった様子じゃなかったので、あの時点では原発が危ないなんて思いもしなかった。でも避難したほうがいいと言うので、二男の嫁の実家が津島なので、一緒に暮らしていた長男家族(徳芳さん)と母は津島へ行けと、先に出してやったの」

周囲の酪農家と相談し、佐藤さんが手に入れた発電機は4戸共同で使うことになった。残る2戸の酪農家はすでに避難したらしく連絡が取れなかった。軽トラックの荷台に積まれた発電機は、リレーのバトンのように車ごと各牛舎をまわった。

浪江町の中心部から津島地区を経て、福島市方向へ抜ける国道114号線は前日から渋滞し、避難する車の列が延々とつながっていた。

佐藤さんは牛舎作業後に長男の徳芳さんたちを追い掛けるように津島地区へ向かったが、地区の手前で戻ってくる徳芳さんを見つけ、車をUターンさせた。理由を聞くと、津島はどこも避難者が詰めかけ、諦めて引き返してきたという。佐藤さんはその後、徳芳さん夫婦と2人の孫、そして母親を南相馬市小高区にある親戚宅へと避難させた。

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情報も食料も何もこない

宮田幸雄さん(49)が佐藤さんから発電機を受け取って搾乳作業を終えると昼近くになっていた。

飼育数は20頭(うち搾乳牛は14頭)。給与する餌の量を極端に減らし草だけを与え、給餌と搾乳は1日1回のみでしのいでいた。浪江町の貯水槽が高台にあったため12日の午前中までは水道を使うことができたが、次の日からは蛇口から水が出なくなった。そのため南相馬市小高区にある福島県酪農協浜支所へ水をもらいに通うことになった。

12日午後3時半。福島第一原発1号機がごう音とともに爆発。爆音は直線距離にして約12km離れた宮田さん宅まで届くほど大きいものだった。宮田さんは身を寄せていた親戚を送り出した後、母と叔母が残る自宅で爆音を聞いている。叔母は体調を崩し前日からベットで寝込んでいた。

政府は1号機の水素爆発を受け、午後6時半に避難指示を20km圏内へ拡大。宮田さんによると、そのころには避難所になっていた近くの苅野小学校や地区公民館からも人の姿が消え、夜には周囲の住民もいなくなっていたという。

「午後4時ころに消防の分団長から公民館の炊き出しを依頼されたけど、夕方には誰もいなくなっていた。だって町から情報も食料も何も来ないんだもの。で、『うちらの団員もみんな避難しているっぺ、なんで分団長はいるんだ。家族はどうした?』と聞いたら『おれらの家族はみんな避難した』というわけ。『役場からよ、こういうふうに頼んできてくんよと言われたっちょ』だって。役場は何やってるんだと大笑いしたけれど、20km圏内に避難指示が出る前に誰もがいなくなってたよ」

3月13日。宮田さんは発電機を受け取り、本人いわく「前日と同じ繰り返し」という作業を淡々とこなしていた。悔しいが搾った原乳はその場で廃棄するしかなかった。水をもらいに福島県酪農協浜支所へ行くと、黒板に「全員避難します」という文字をみつけた。国道114号の渋滞は解消され、行き交う車はほとんどなくなっていた。

冷却装置が機能しなくなった3号機は冷却水が沸騰し、格納容器内の圧力が徐々に高まりつつあった。12日の1号機に続き、政府は格納容器内の圧力を抜くベント作業を指示。8時41分、3号機の排気筒から放射性物質を含む蒸気が、雲ひとつない空に放出された。

(続く)

*年齢は当時(記事執筆は2013年1月)