佐藤克芳さんの牛舎脇に立つ牛魂碑(2013.4.1)
酪農家、組合員による乳牛慰霊祭
東日本大震災から3年を迎える日の前日。福島県浪江町立野で酪農を営んできた佐藤克芳さん(67)の牛舎脇で、東京電力(株)福島第一原発事故によって命を失った乳牛の慰霊祭が執り行われた。牛舎敷地内に立つ牛魂碑は1979年に佐藤さんが牛舎を建て替えた際に設置。原発事故前は年に一度、福島県酪農協同組合浜支所浪江支部に所属する酪農家や浜支所職員が集まって家畜の供養が続けられてきた。しかし原発事故によって立野を含む浪江町全域が強制避難地域となり、この日の慰霊祭は原発事故後初めて執り行われたものだった。
牛魂碑前に集まったのは福島県酪浜支所浪江支部の酪農家と浜支所職員ら12人。同支部には6戸の酪農家が所属し、全戸が福島第一原発から半径20km内に牛舎と住まいがあった。20km圏内が対象となる避難指示が発表された当時、情報の伝達は混乱の極みといえた。避難は数日で終わるのか、数ヶ月続くことになるのか、周囲の誰一人まともに答えられる者がいない状況で、町職員でさえ情報に困窮していた。
酪農家だからといって特別に便宜が図られることはなく、避難は突然迫られた。避難のタイミングと方法、避難先は各自の判断に任され、佐藤さんらは牛舎へ乳牛を残したまま自宅を離れざる得なかった。牛舎の外へ逃がしたいという思いは当然あった。しかし「放した牛が勝手に出歩き、他人に迷惑をかけることがあってはいけない」との思いが強く、佐藤さんは「酪農家はおそらくみんなそんな思いだったのではないか」と仲間のやるせない思いを代弁している。その結果、つなぎ牛舎内で飼養されていた乳牛の多くが餓死することとなった。浪江支部では当時196頭の乳牛が飼養され、牧場主がいなくなった各牛舎では餌と水を欲しがる乳牛の鳴き声がしばらく続いたという。立野地区と隣接する南相馬市小高区の酪農家も同じような状況だった。悲鳴のような牛の鳴き声が今でも耳に残っていると話す関係者は少なくない。
取り戻せない、元の暮らし
原発事故直後、佐藤夫妻は息子家族と別れ、母親を連れて千葉県館山市へ避難。約4ヶ月間、親戚宅や宿泊施設での避難生活を強いられた後、2011年7月に浪江町が借り上げた二本松市内のアパートへ移って来た。原発事故前は息子夫婦と2人の孫が同居し、家族7人でにぎやかに暮らしていたが、二本松市へ来てからは1LDKのアパートで夫婦ふたりでの暮らしが現在も続いている。2011年6月に避難生活で体調を崩した母親が亡くなり、跡継ぎだった息子も持病が悪化し翌年還らぬ人になってしまったのだ。2人の遺骨は49日を過ぎた後、防護服を着用させられての一時帰宅の際に自宅近くの墓地へ埋葬された。2013年3月7日に浪江町の警戒区域が再編され、佐藤さんの自宅は「居住制限区域」に指定。区域再編後は「一時帰宅」という制度がなくなり、立ち入りは毎日でも行えるようになったが、放射線防護の観点から15才未満の浪江町への立ち入りは依然禁止されている。そのため小さな孫たちは父親の墓参りができず、佐藤さんは墓の移設を検討している。
立ち入りが可能になっても、元の暮らしが取り戻せるわけではない。国は「居住制限区域」の解除見込みを”発災から5年後”としているが、3年以上放置された建物は傷みが進み、土地は荒れ、再びそこで暮らすことは大きな困難を伴うと言わざるを得ない。
佐藤さんの妻・典枝さん(63)は、原発事故と度重なる不幸でふさぎがちだったが「この1年ぐらい前から外へ出掛けられるようになった」と心境の変化を吐露している。夫婦で「前を向いて暮らしていくことが大切と話し合い、この10年をいかにして生きるか」考えるようになったという。そして原発事故後に暮らし始めた二本松市に土地を購入することを決意し、安達太良山を見渡せる高台にもうじき新居が完成する。孫たちがいつでも遊びに来てもいいように部屋を設け、趣味の園芸も再開するつもりだ。
現在は経営から引退しているが「T・ユニオンデーリィ」設立には今野剛さんの父、幸四郎さん(77)も参加。原発事故後、幸四郎さんは浪江町沿岸部と津島地区を結ぶ国道脇に「滝桜」の子孫の枝垂れ桜を植樹。将来、桜は故郷に明るい彩りを添える存在になると幸四郎さんは信じている(2014.4.22)
共同経営での酪農を選択
佐藤さんが暮らしていた立野から北西方向へおよそ15kmほど離れた場所にある浪江町津島地区でも原発事故前、9戸の酪農家が暮らしていた。しかしこの地域も原発事故による放射性物質の汚染被害地となり、津島地区を含む一帯は国が定める「帰宅困難区域」に指定された。「居住制限区域」と比べて汚染度が高く、5年経っても年間積算被ばく量が20ミリシーベルトを下回らない可能性のある地域になってしまったのだ。
阿武隈山地に囲まれた津島地区は県内でも酪農に適した土地で、各農家とも自給飼料をつくり、飼養頭数規模こそ大きくないものの家族経営の酪農で先祖代々の土地を利用し守っていた。その土地が放射性物質によって汚染され、いつ帰れるともわからないのだ。
「生まれたときから牛がいて、365日休みなく働いてきた。何度、牛がいなかったらと思ったことか。でも、いなくなると寂しい。牛で学校へ行かせてもらい、食べさせてもらった。昔はここから出たいと思っていたけれど、こんな終わり方になるとは …」
津島で生まれ育ち、酪農を営んできた女性の言葉だ。故郷からの退去を求められた住民は仮設住宅や借り上げ住宅、独自に確保した住宅などで”仮の暮らし”を迫られ、酪農家は先が見えない混乱とした状況のなかで休業を選択せざる得ない立場に置かれた。当初は乳牛の移動でさえ行政から許可が下りずに手探りの状態であったが、移動が認められるとやむにやまれず牛を手放す人たちが相次いだ。
そのような状況の中、津島地区で酪農をしてきた三瓶利仙さん(58)と今野剛さん(54)は共同で法人「T・ユニオンデーリィ」を設立し、新たな牧場経営に取り組んでいる。2人とも酪農2代目で、三瓶の妻である恵子さん(55)と今野さんはきょうだい。3年前、津島にあったそれぞれの牛舎から妊娠している牛を30頭ずつ福島県本宮市で見つけた離農牛舎へ運び、共同経営で酪農を続けていく道を選択した。牛の移動にあたっては県によるスクリーニング検査を受け、離農牛舎の設備も新しいものに交換。津島地区からの避難期限となる2011年5月末には何とか間に合ったものの、綱渡りのような酪農再開だった。牧場近くに本宮市の堆肥処理センターがあり、その施設を使うことで糞尿・堆肥処理の問題が解決したのは幸運だった。当初は設備修繕費などは東電賠償の対象にならないと思い、持ち出し覚悟での移転だった。
津島では三瓶牧場が80頭の乳牛を飼養し、今野牧場は50頭ほどの規模だった。法人経営となった現在の理想は2戸分の搾乳量を維持することだが、借りている牛舎のスペースから搾乳牛の飼養は60頭弱が限度。さらにこれまでは2戸あわせて20ヘクタール以上の草地で永年牧草を収穫し牛に与えてきたが、移転後はすべての飼料を購入に頼らざる得なくなっている。草地に関しては東電から10アールあたり約8万円の賠償を得てはいるが、それら賠償がなければ「2戸が食べれるだけの収入が得られない」状態だという。
搾乳牛の世話をする三瓶利仙さん。既存の牛舎はスペースが限られるので、頭数を増やすために屋根だけの場所でも搾乳牛を飼養している。パイプラインミルカはなく朝と夕にバケットミルカで搾乳。少しでも経営を向上させるための努力が続けられている(2014.6.12)
福島を代表する名牛だった「ユニオンデール・ダンディ・ガール」の娘牛を世話する今野剛さん。福島県から2015年全共北海道大会の入賞を狙っている(2014.6.12)
やっぱり牛が好きなんだね、私たち
義理の兄弟とはいえ、2人はこれまでそれぞれ違う考えで酪農経営を行ってきた。法人化は悩んだ末の結論だったと、恵子さんは語る。
「津島にいて酪農をやっていれば、毎月の収支とか年間の申告のことさえ考えていれば経営的には良かった。だけど原発事故はそれをぜんぶひっくり返した。人生の根源からぜんぶひっくり返され、必要か必要じゃないかというところまで考えざるを得なくなった。そうやって考えをそぎ取っていくと、最後に残るものは何だろうかというところまで考えるようになった。儲からなくても牛が好きだという気持ち、そういうのが最後に残るのかな、ぁと。今までは実感できなかったけれど、数千万円とかいう金額をたとえ手にしても、満たされない部分というのはある。今そういう金額の賠償金をもらっても、何でこんなに満たされないんだろうと思えてくるんです。剛がいなかったら、我々も今の判断はしなかったと思うし、剛一人でも難しかっただろうなと思う。牛がやっぱり好きなんだね。私も2人も」
原発事故は多くの不幸を生み、その不幸は現在も続いている。だからといって福島県は涙ばかりが溢れているわけもない。厳しい状況であるにもかかわらず、前を向いて少しずつ歩み出している人たちがいる限り、きっと希望はあると筆者は信じている。
(完)
*年齢は当時(記事執筆は2014年6月)