SABANI TRIP 2010

SABANI TRIP 2010 | 与那国島から沖縄本島を目指して | 2010.7.6-7.13


エピローグ

7月13日。多良間島の普天間港を出発後、約9時間を掛けて宮古島北端に浮かぶ池間島に到着した。
航海距離はおよそ70km。島を出てからの6時間は「エーク」と呼ばれる櫂を波立つ海面に何度も差し込み、前だけを向いて漕ぎ進めた。

普天間港の防波堤を出ると、短いピッチのうねりが続き、強い潮流が北へ流れていた。
帆で風を受けていても、漕ぎを止めるとサバニが北へ流されるため、進路を保つために漕ぎ続ける必要があった。
多良間島の島影が見えなくなくなってからは、水平線がぐるりと取り囲み、吸い込まれそうな真っ青な海がどこまでも広がっていた。


池間島に到着後、ぼくらは1日の大半を斜路に上げたサバニの脇で過ごしていた。
港に居ると、地元の人たちから漁や海、かつてこの海域で活躍した「帆掛けサバニ」についての話を聞くことができたのだ。
昔のサバニに関する話を聞くのは、なによりも面白かった。
ある日、コーヒーを飲みながら漁港で寛いでいると、サングラスをかけた体格の良い漁師が近寄ってきたことがあった。
漁師は「まだいるのか?」とぼくらに言葉を掛けた後、「これ、味噌汁にして食べて」とビニール袋に入った作りたてのゆし豆腐を差し入れしてくれたのだった。そして昔の話しを聞かせてくれた。

エンジン付きのサバニが普及する前、「海人」と呼ばれる人たちは帆かけサバニを操り、遥か彼方まで漁へ出掛けていた。それが普通だった時代が、そう遠くない過去にあったのだ。

旅のスタート地である与那国島から池間島までは約280kmあり、目的地の沖縄本島までは池間島からさらに約400km先にあった。
池間島を出ると、次に近い島は直接距離で約230km離れた久米島で、クルーはこの区間の島渡りを心待ちにしていた。
長距離区間を渡るためにぼくらは数年をかけて準備に取りかかり、前年には沖永良部島から加計呂麻島まで夜間航海で渡っていた。
しかし池間島から先は風や台風などの気象現象ではなく「法律」という外的要因が、ぼくらの行く手に立ちはだかることとなった。

池間島に到着した日、海上保安庁・宮古海上保安署の職員がぼくらを出迎えてくれた。
到着前日、八重山毎日新聞の記事を読んだ海保から伴走船の有無についての問い合わせがあり、電話を掛けたきた職員から「池間島〜久米島間は伴走船をつけて欲しいが、無理ならば定期連絡をして下さい」と言われていた。
ぼくらは海保提案の伴走船を断り、その代わりに衛星電話で定期的に現在地を伝えることを快諾していた。
港で出迎えくれた海保職員はきっとその件で来たのだろうと、ぼくらは思っていた。
しかし、全く想像だにしない言葉が海保職員から投げかけられ、正直面食らった。

「確認したいことがあります。みなさんのこの舟(サバニ)は、日本小型船舶検査機構による船検はとってありますか?」

〝寝耳に水〟という諺があるが、上陸後に海保職員から説明を受けた内容は、我が耳を疑うのに十分過ぎるほどの驚きだった。

「ここまでは問題ありませんが、船検がない場合はこれから先20海里(約37km)を越える航海はできません。船検については日本船舶検査機構沖縄支部に問い合わせ下さい」

船検は車の車検と同じような制度で、エンジンを積載をした船舶(一部例外あり)は法令によって定期的な検査と登録が義務付けされている。
ぼくらのサバニは、昔ながらの伝統的木造舟である。
もちろんエンジンはなく、帆はあっても「手漕ぎ舟」との認識でいたため、海保からの突然の警告は驚くばかりだった。

海保職員がしきりに電話番号を指差し、連絡をとって欲しいと話すため、日本小型船舶検査機構沖縄支部へ電話を掛けることなった。
電話口の担当者によると、これまで船検を申し込んだ「帆かけサバニ」は皆無で、現状の船体で検査を通るのは厳しいとのことだった。
わかりきった、ある意味、当たり前の返答だった。
検査を通すためには舟をデッキ構造にするなど根本的な改造が必要で、そのスタイルはサバニとは大きくかけ離れたものだったからだ。

海保職員は対応こそソフトだったが「20海里を越えたら、それなりの対応をします」と、会話の随所に海の警察らしさが滲み出ていた。
「航海を続けるならば船検をとってください」
海保職員は最後にそう念を押し、引き上げていった。

台風2号のうねりが若干届き始めたものの、風向きは悪くなかった。
いますぐにでも出発したいと思える海況だったが、予想外の出来事により、ぼくらは途方に暮れることになった。

納得できない疑問が頭の中で大きくなっていった。
親しい弁護士や船舶に詳しい方へ電話を掛け、ぼくらが直面する問題を共有し、クルー同士で何度も話し合い、みんなが納得できる解決の道を探った。
焦る気持ちを抑えながら、クルーが其々のネットワークを駆使し、制度の海に漕ぎ出す日々だった。


昼間はサバニ近くの日陰に移動し、夜は漁港の片隅にハンモックテントをぶら下げて眠った。
港で寛いでいると、帆かけサバニが活躍していた時代を知る人たちが次々とやってきては、サバニにまつわる話をしてくれた。
そう遠くない昔。エンジンサバニが普及する前から先人たちは帆かけサバニを操り、八重山や沖縄本島へ出掛けていたのだ。
ひとりふたりと顔なじみになる方が増えていき、その方々たちとの出逢いや話は、池間島での滞在を豊かなものにしてくれただけでなく、ぼくらを励まし勇気づけた。
サバニで島々を巡る旅は、海をよく知る人たちに出逢う旅でもあり、人のやさしさに触れる日々でもあった。


70代半ばになるオジイが、ぼくらの話を聞き付けて立ち寄ってくれたことがあった。
彫りが深く、潮に焼けた肌。現役の漁師で、魚を捕ることを生業にして60年は過ぎていた。
オジイがエンジンサバニに初めて乗ったのは24歳だった。
それ以前は帆かけサバニを操り、漁へ出掛けていたという。
人懐っこい笑顔で話すオジイの昔話にぼくらは夢中になった。
オジイも若いときは帆かけサバニに乗っていたが、オジイの父や祖父はさらに遥か遠方まで漁に出掛けていたとのことだった。
オジイは話をしている間、ぼくらが乗ってきたサバニを撫でまわし、昔を懐かしんでいるようだった。

港で寝泊まりするぼくらを不憫に思ってくれたのか、果物や飲み物を差し入れてくれる方も少なくなかった。
池間島滞在3日目には家を提供してくださる方も現れ、多くの優しさに支えられ、快適に滞在することができた。
集落の方がぼくらのことを「海保に足止めくらった人たち」と認識しているのが面白かった。

滞在中、地元の新聞2紙がぼくらの旅を紹介してくれた。
記事中になぜか「明日16日に出発」と書かれていたため、新聞を読んだ海保職員が再び池間漁港へやってきたりもした。
海保からの前向きなアドバイスを期待したものの、前回と同じく一方的に「船検を取るように」と言い残し、海保職員は帰っていった。

ぼくらのサバニは、はたしてそもそも「船検」が必要な舟なのだろうか…。
小型船舶の登録等に関する法律を読むと「ろかい又は主としてろかいをもって運転する舟」は小型船舶とは見なされず、登録を除外と記されている。
今回の航海に関わらず、漕ぎは帆よりも重要な動力だと、ぼくらは認識している。
主とする動力が櫓や櫂の船のほか、12m未満の帆船、エンジンや帆装を有さない船舶などは、船検が免除されている。

法律を読めば読むほど、南西諸島で長きに渡って活躍したサバニが法令に当てはまる船舶と考えるには無理があるように思えた。
帆かけサバニはろかい船やカヤックと同じ扱いで、ヨットなどの帆船とは別モノなのではないだろうか。
船舶についての定義が知りたくなり、日本小型船舶登録検査機構に改めて電話すると、予想外の返事が返ってきた。

「私たちの組織は申請された船舶を検査登録する機関なので、法令に照らして申請が必要な船かどうかを事前に判断する権限はありません」

池間島での停滞を余儀なくされ、各方面へ電話を掛ける日々が続いた。


池間島滞在4日目の朝。
サバニを海に浮かべ、一足早く旅を終えるクルーと海に漕ぎ出した。
夜明けの風は涼しく、久しぶりの海は気持ち良かった。
大神島の方向へ向かうと、輝く水面越しに大きなテーブルサンゴがいくつも見えた。
波のない穏やかな海。ぼくらは飽きることなく珊瑚を眺め、ゆらゆらと海に漂い、これまでの日々を笑いあった。

港へ戻ると国交省の出先機関である「内閣府沖縄総合事務局運輸部」に電話し、経緯を伝えた。
担当者はサバニについての知識があり、即答は避けつつも、ぼくらの疑問点を理解しているようだった。
調べる時間が必要とのことだったので、いったん電話を切り、返事を待つことになった。

沖縄総合事務局からの返事を待っていると、海保から電話が掛かってきた。
日本小型船舶検査機構とのやり取りを報告し、現在は沖縄総合事務局の判断待ちとの状況を説明した。
そして判断の内容によっては、違反の根拠となる法律が自分たちのサバニには適用されないことを伝えた。

帆柱上部に取り付けている「風見魚」がくるくると風に舞っていた。
風は前へ進むために必要なものではあるが、海の上でいつも追い風とは限らなかった。
横っ面を叩きつける風があれば、正面から行く手を拒む風も珍しくなかった。
風は抗う対象にもなり、目的地へ運ぶ味方にもなった。
ぼくらはどちらに風が吹いても、諦めずにいる自信だけはあった。

海保からの電話対応後、すぐに沖縄総合事務局から連絡があった。担当者は誠実な方で、ぼくらとの通話直後に海保から電話があったことを隠さずに教えてくれた。
そして個人的な見解と前置きした上で、ぼくらが乗っているサバニは、船検が必要とされる船舶とするには無理があると話してくれたのだ。

「帆かけサバニを船検が必要とする船舶と言い切るのは無理があり、法令に照らし合わせると限りなくグレーに近い」

担当者は自身の見解を述べつつ、この決定は自分で判断できる内容ではないので、本省に判断を求めている最中だと、ぼくらに教えてくれた。

本省からの正式な連絡を待つことになった。
池間島に滞在し、あと数日で一週間が経とうとしていた。
この船検問題は、ぼくらだけの問題ではなく、これまで自由に沖縄の海を渡っていたサバニの未来を決定するほどの問題だとぼくらは認識していた。
港が紅く染まり始めた夕方、本省の判断を伝える電話があった。
その内容はぼくらを大いに失望させた。
沖縄の担当官は昔から沖縄の海に浮かんでいたサバニに理解を示していたものの、霞ヶ関の判断は「船検が必要」というものだった。
本省の判断は沖縄文化を考慮したものだとは思えず、遠く離れた霞ヶ関が一方的に決めることに違和感を感じずにはいられなかった。


池間島から久米島までは直接距離でおよそ230kmもある。
この距離では通常1日では辿り着けず、必ず夜間航海となるために緊張を強いられる区間だとクルーたちは認識していた。
その一方、全員がこの海を渡ることを楽しみにしていた。
しかし、宮古海上保安署から違法性を指摘されたことで、不本意ながら別の方法を探ることになった。

今夏の旅だけでなく、これまでのサバニ旅でも、ぼくらは伴走船を使用することはなかった。
伴走船に守られて魚を捕る漁師がいないように、旅も自力行動が当たり前との判断からだった。
そのため安全対策は念入りに行い、伴走船に頼れない状況を自覚することが、むしろ安全に繋がると認識していた。

しかし状況は変わった。
自力航行を検討模索するなかで、伴走船をつける方向で検討した。
伴走船を母船扱いとすれば、航行海里の制限が変更されると思ったのだ。
しかし沖縄総合事務局の判断は「伴走船案でも違反」というものだった。
伴走船案も違反と判断され、八方ふさがりの状況が続いた。
しかしぼくらは池間島でこの旅を終わらせるつもりはなかった。

納得できない想いは募るばかりだが、自力航行を断念するしかなかった。
そして20海里を超える区間は他の船に「曳航」してもらうこととなった。
海保に問い合わせると、曳航で渡る分には法律に抵触しないとのことだった。
しかし、計画を具体化するには困難を極めた。
池間島から久米島までの往復距離はおよそ500km。
島から100海里以上を航行できる許可を持つ船もまた限られていた。 

港で出会う漁師に事情を説明し、ぼくらのサバニを久米島まで曳航してくれる方を探すことになった。
翌日、ぼくらの行動に理解を示す方々の協力に助けられ、曳航行為を申し出てくれる漁師と出会うことができた。
曳航という手段ではあったけれど、久米島へ渡れる見通しが経ったことを池間島の方々は、自分たちのことのように喜んでくれた。

出発は現場海域を熟知する漁師の天候判断に委ね、ぼくらは再び旅を始めるための準備に取りかかった。
曳航してくれる漁師と相談し、出発日は7月19日夕方と決まった。

池間島と久米島の間には海底が急激に浅くなる海域があり、大きな崩れ波がたつことで知られていた。
曳航という手段ではあるが、ぼくらは再び心地よい緊張感に包まれた。

出発の前日、曳航を引き受けてくれた漁師から電話があった。

「念のために海保へ問い合わせたところ、曳航では島から20海里を超えることはできない。申し訳ないが諦めてくれ」

漁師の話だと、曳航は漁業行為ではないために100海里航海は認められないと海保から警告されたようだ。
ぼくらの航海のために漁師に違反行為をさせるわけにはいかず、これで漁船に曳航行為を依頼するのは実質的に不可能となった。

事前に海保へ問い合わせた時には「曳航行為で20海里を超えるのは問題ない」と話していたが、その際、曳航に関する説明はいっさいなかった。
ぼくらが甘かったと言われればそれまでかもしれないが、海保のこれまでの対応に疑問を感じざるを得ない。

曳航を申し出てくれた漁師の船は、100海里以上航行可能な「船」として登録されていた。
そのため「久米島まで曳航可能」と、ぼくらや漁師は判断した。
しかし海保は「船検は漁船としての登録なので、漁業行為以外で20海里を超えることは認められない」という判断を下したのだった。
改めて曳航してくれる船を探し、船主に20海里を超える曳航行為の「臨時検査」を習得してもらう時間的余裕はなかった。
7月19日、久米島へ渡るのを断念し、貨物船でサバニを沖縄本島へ運ぶことを仲間内で確認した。

池間島到着後、あっという間の1週間だった。
海運会社が迅速な対応してくれ、祭日にも関わらずトレーラを池間島へまわしてくれた。
残ったクルーでトレーラーに載せられたサバニを見送ると、舟尾に取り付けた布が風に揺れ、サバニもまたぼくらに手を振っているようにも見えた。

那覇へ戻ってから日本小型船舶登録機構と内閣府沖縄総合事務所へ足を運び、担当者と直接話す機会を設けた。今回の問題の根っこである「帆かけサバニは法令が適用される船舶なのか否か」について意見交換を行い、池間島で中断した旅を再開させるべき前向きな検討を依頼した。

ぼくらは大きな宿題を抱えることとなり、2010年のサバニ旅は終わった。