令和6年能登半島地震から1年

2024年1月1日に発生した「令和6年能登半島地震」から1年が経過した。
地震によって甚大な被害が生じた石川県の能登半島では、9月20日から22日にかけてこれまでにないほどの記録的な豪雨に見舞われ、河川の氾濫や土砂崩れなどが相次ぐ事態となった。復旧途中にあった道路や暮らしに欠かせないインフラ施設などが豪雨によって再び被災しただけでなく、地震で負った傷口が癒える間もなく二重被災した住民も多く、長期的な支援が必要な状況となっている。被害が大きかった地域では人口流出が進み、これまでと同じように地域や生業が維持できるかどうか、被災地は難しい課題が山積している。

豪雨により氾濫した南志見川(2024年9月26日、輪島市里町にて)

▼人口減少率が7.5%に及んでいる奥能登

 最大震度7を記録した能登半島地震から1年が過ぎ、発災直後の避難者数が一時4万人を超えた石川県では、被災した各市町から要望された応急仮設住宅6882棟の建設が2024年暮れにようやく完了した。被災家屋の公費解体が済んだのは全体の3割を超える1万棟程度。県は2025年10月までに県内全ての公費解体を完了する見込みを立てており、県内外の自治体や企業の協力を得ながら解体で発生した災害廃棄物の処理を進めている。
 こうした復旧作業が進む一方、地震や豪雨の被害が特に大きかった奥能登(珠洲市、輪島市、能登町、穴水町)では、余震や二次被害などの恐れがある中、断水や避難所暮らしが数ヶ月に及んだことで転出する住民が増加。人口流出が深刻な問題になっている。
県が2024年12月に公表した人口推計によると、奥能登の2市2町は元旦からの10カ月で人口が約7.5%減り、減少率は前年同時期の2.3倍に及ぶ。中でも輪島市や珠洲市の減少率が10%弱と高く、住民票を移動させずに二次避難している住民もいることから、実際はさらに人口流出が進んでいる恐れもある。
 奥能登は以前から高齢化率が高かったこともあり、子育て中の住民や現役世代が転出した地域では過疎化に拍車がかかることを心配する住民は多い。住民の減少は地域コミュニティの維持を難しくし、地元経済に与える影響も大きいが、被災した自宅の解体を決めた住民も多く、どれほどの転出者が再び元の地域へ戻ってくるのか、現段階でははっきりしない。地震と豪雨で大規模な土砂崩れが発生した珠洲市大谷町にある小中学校では、地震前23人だった生徒数が5人に減少。小中学校の合併を求める声も地元では出始めている。
 人口が集中する中心部も例外ではない。営業を再開したスーパーやコンビニ、飲食店や建設会社などが競って働き手を募集しているが、正社員やパートタイムのアルバイトも集まらず、少ない人員でシフトを組み、閉店時間を早めるなどの対応をせざる得ないところが出ているのだ。畜産などの農場も同じ状況で、従業員確保が難しくなっている。

地震と豪雨で大規模な土砂崩れが起きた大谷町(2024年9月30日、珠洲市大谷町にて)

 珠洲市唐笠町で乳牛(経産牛32頭)と和牛(約100頭)を飼養する松田牧場の松田徹郎代表(36)も従業員不足に悩んでおり、深刻な状況だと打ち明ける。地震前に5人いた従業員は二次避難などを理由に大半が退職し、現在は能登地区ヘルパー利用組合のヘルパーを利用することで対応。ハローワークなどに募集を出しているものの、地元住民からの応募はなく、スタッフ1人あたりの作業量が増大しているという。松田さん自身も妻と3人の幼い子どもが暮らす金沢市内へ帰る余裕がなく、牧場で寝泊まりする日々が続いている。
 県外から働きたいとの問い合わせはあるが、「採用時に紹介できるアパートや一軒家などの賃貸物件が地震以降は市内からほぼなくなり、雇いたくても断らざるを得ない」とこぼす。地元の不動産屋が物件を探し出しても解体業者などに既に押さえられてしまうなど、少ない物件を早いもの勝ちで取り合っている状況だという。そのため松田さんは従業員の休憩室を兼ねた「ムービングハウス(移動式コンテナ住宅)」を牧場内に設置し、簡易的な宿泊場所としても利用できないか考えている。

乳肉複合経営を行う松田徹郎代表。2024年12月上旬の出荷乳量は780kg/日(2024年11月28日)

▼豪雨による土砂崩れで2度目の断水に見舞われる

 松田牧場がある珠洲市の八ケ山周辺は1973年に国営農地開発事業の酪農団地として整備された土地で、松田さんは離農牧場を2014年に買い取って入植した新規就農者だ。現在利用している4棟の木造牛舎は酪農団地として整備された時に建てられたもので、2024年元旦の地震で2棟が「全壊」となった。さらに浄水場からの配水管破損などで、地震後は7カ月間も断水。牧場の経営面積は草地を含め約35haあるが、稜線付近のため井戸を掘っても水は出ず、地震からしばらくは斜面からしみ出てくる水を少しずつ集めて搾乳牛舎の乳牛に与え、他の牛は放牧地に放つしかなかった。その後、北陸酪農業協同組合連合会や石川県酪農業協同組合などが清潔な水をローリー車で牧場まで届けてくれるようになり、断水時でも生乳が出荷できる環境が整った。しかし「支援水」だけでは全頭分を賄えず、断水解消まで毎日6tほどの清水を牛舎まで運ぶ作業が必要だった。
 そして断水解消から2カ月後、9月の豪雨による土砂崩れで浄水場からの配水管が再び破損し、松田牧場は2度目の断水に見舞われた。さらに牧場につながる県道や堆肥舎までの農道が崩落。断水と停電に加え、牧場が孤立した。地震前は日量平均で900㎏(搾乳牛30頭)の出荷乳量だった松田牧場。出荷再開からしばらくは1/3程度の乳量だったが、4/5くらいまで回復した矢先に豪雨の被害に遭ったのだ。

9月21日の豪雨時に松田さんと従業員が交わしたLINEでのやり取り。道路が寸断し、牧場へ来られないスタッフもいた

▼ボランティアによる道路復旧で孤立解消

 能登半島地震では道路の陥没やひび割れ、土砂崩れや倒壊家屋などで行く手が阻まれるなど、通行困難となった箇所が数え切れないほど発生。孤立を余儀なくされた集落や地域が続出し、救命救助や住民支援に支障が生じた。この時、地元建設会社と並んで活躍したのが民間の技術系ボランティアである。彼らは小回りが効く2〜4tダンプなどで重機を運び、通行困難な箇所を次々と啓開(障害物を除去して通行可能にすること)していき、その道を警察や自衛隊、消防などの車両が通っていったのだ。重機を操る技術系ボランティアは豪雨時の孤立解消にも尽力し、今では災害復旧に欠かせない存在となっている。

日没後、崩壊した県道の道幅を広げる福田さん。作業は深夜まで及んだ(2024年9月23日、珠洲市唐笠町にて)

 石川県白山市で水道工事会社を経営する福田淳さん(39)は、豪雨直後の23日に珠洲市内で道路啓開を終えた後、他のボランティアから引き継ぐかたちで松田牧場につながる県道の啓開作業に当たった。豪雨で崩落した県道は、福田さんが到着した段階で技術系ボランティア団体が山側を削り、辛うじて軽トラ1台分の道幅が確保された状況だった。松田さんから集乳車が通れないことを聞いた福田さんは、自前の重機を操り、大型発電機を積んだトラックや集乳車が安全に通れる道幅まで広げていった。こうしたボランティアの善意で松田牧場は孤立が解消し、集乳が再開された。松田さんは「豪雨で孤立した時は、地震後からの努力が全て無駄に思えたほど心が折れた」と振り返る一方、「道がつながり、よくやく前向きなことが考えられるようになった」と福田さんたちに感謝する。知人を介して豪雨前に松田牧場の水道配管工事を請け負っていた福田さんは、「困っている人がいたら助けるのが当たり前です」と、今後も被災地支援を続けると話す。

地震後、能登半島では出荷戸数と乳量が減少したため、集乳ルートが3つから1つに集約された。この変更に伴って集乳車は20時間稼働となり、集乳コストが増えている。集乳は能美市のアイ・ミルク北陸から一番遠い松田牧場から始まる(2024年11月28日、松田牧場にて)

▼道路寸断のため倒壊したままの牛舎も

 松田牧場は全壊となった牛舎を再建する資金の提供をクラウドファンディングで広く呼び掛け、約2カ月半で目標額の7000万円を集めることができた。再建案では全壊と判定された和牛牛舎2棟を取り壊し、46頭規模の搾乳牛と、和牛の飼養スペースを備えた新牛舎1棟に集約する計画で、総額は2億4400万円に上る。再建には国と県、市の補助金を活用するが、それでも7000円ほどは自己負担の必要があった。松田さんはクラウドファンディングで集まった支援金で再建の見通しが立ったことに安堵しながらも、復旧のスタートラインに立つことすらできない酪農家がいることに胸を痛めている。松田牧場の敷地を通る農道の一部は地震から1年が経った現在も崩落したままで、復旧の気配はない。崩落で寸断した農道の先には地震発生時まで営農していた酪農家の牧場があり、倒壊した牛舎だけでなく圧死した乳牛もそのままの状態で風雪雨にさらされ続けているのだ。
 倒壊した牛舎の牧場関係者に地震から半年の節目に話を聞いたところ、公費解体の申請は出しているが、牧場につながる道が寸断しているため認定調査すらできず、解体のめどが立てられない状況だという。牧場を立て直して営農を継続する意思はあるものの、「どうすることもできず、なるようにしからならない」と言葉少なげに話す姿が印象に残っている。
 11月下旬に珠洲市で農林水産業を担当する産業振興課を訪ね、寸断したままになっている農道について尋ねると、「応援の派遣職員はいるが、手が回らない状況が続いている。少ない職員で対応しきれていない」との説明が返ってきた。八ケ山周辺の元国営農地は県の奥能登農林総合事務所に復旧対応を任せているので、詳しいことは県担当課で聞いて欲しいとのことだった。その足で能登空港内の同事務所へ向かい、土地改良部整備課の課長から説明を受けたが、ここでも奥能登全体の被害規模に対して職員の人的リソースが見合っておらず、予算請求のための現地調査や書類作成が追いついていないとの話だった。「大変な状況だと認識しているが、被害箇所が多いためにできるところからやるしかない状態。作業をする業者不足も深刻で、優先順位もある。珠洲市として唐笠町一帯をどうしていくのか、将来ビジョンを描いてくれると助かる」と、復旧対応を市から丸投げされている状態に困惑している様子も感じられた。

松田牧場と倒壊した牧場をつなぐ農道の崩落現場。復旧のための測量に着手されておらず、工事に必要な予算請求も2024年12月時点でなされていない。崩壊規模が大きいことに加え、復旧箇所が数多くあることが理由(2024年11月30日、珠洲市唐笠町にて)

▼地震被害を理由に3戸が廃業「借金返済の見通しが立たない」

 能登半島地震以降、石川県では地震被害を理由に3戸の酪農家が廃業した。夏を迎える前に廃業した能登町の酪農家は、被災牛舎の建て替えで新たな借金を抱えても返済の見通しが立てられないことを理由に挙げている。断水と停電で搾乳ができなくなり搾乳牛全頭を強制乾乳した影響が出荷再開後も残り、発災から赤字経営が続いていたことも営農意欲をそいだという。廃業を踏みとどまった経営者も、輸入飼料や光熱費などに加え、壊れた牛舎や施設を修繕するための資材や人件費の高騰に悩まされ、厳しい経営判断を迫られている。
 県酪農業協同組合によると2023年12月の県内生産量は1418t。地震直後の1月は奥能登の酪農家が出荷できなかったこともあって1042tに落ちん込んだ。5月には1367tまで回復。徐々に奥能登でも出荷が再開されたことや、被災農家から牛を引き取った県中西部・内灘町の11戸が生産量を50tほど増やしたためだという。同組合酪農部長(総務部長兼任)の普神正史さん(55)は地震で組合員が廃業したことに対し、「酪農家の減少に危機感を持っている。一部地域の頑張りだけではなく、県内の酪農家が全体で生乳生産を支えなければいけない」と話す。しかし組合として離農を防ぐための有効策を講じることは難しく、財政的にもごく限られた支援しかできないのが実情だ。

「広い牧草地でのんびり育った牛から搾った能登産生乳に魅力を感じる消費者や料理人、ジェラード職人も多い」と、付加価値向上の機運に希望を見出す西出穣さん(2024年11月28日、西出牧場にて)

▼牧場を元に戻すだけでは先がない

 家族経営で乳牛経産牛34頭を飼養する能登町の西出穣さん(37)も、地震後の建設費高騰に困惑する。国の支援策を活用して全壊となった育成牛舎を建て替える計画だが、この1年で建設費が約3割も値上がりし、さらに施工業者を探すのが困難だったのだ。準半壊と判定された搾乳牛舎の屋根修理すらも職人不足のためにふき替えの予定が立たず、傷んだブルーシートを1年に3回も自ら張り直した。
 西出さんは酪農だけでなく能登全体の将来を考えると「元に戻すだけでは先がない」と言い切る。被災当初は今後の経営をより安定させるため、一回り大きな搾乳牛舎への建て替えも検討していた。しかし政府が支援策として掲げる補助金は基本的に現状回復のためのもので、規模拡大などは目的外とされる。西出さんは政府の支援策をありがたいと受け止める一方、建物が新しくなっても中身が変わらなければ意味がないと判断し、当面は修繕で対応する。今の酪農を取り巻く状況では自己負担の増額が今後の経営リスクになるからだという。
 「一人勝ちの考えでは地方では生きていけない」と西出さんはいう。この地で酪農を続けていくことが、全体の幸福につながり、本当の意味での復興なのだと。「現状の制度では規模拡大は難しいが、経営の安定化や生乳の付加価値向上は重要だ。何が正解かわからないが、このまま何もしないでいると酪農の将来が危ぶまれる。それは自分たちの問題であり、能登全体の問題だ」


DAIRYMAN誌 2025年1月号掲載(年齢は掲載時点のもの)