地震はいつどこで起こるかわからない。元旦に石川県の能登半島を震源とする最大震度7の地震が起きた時、多くの人が「まさかこんな日に」という思いでニュースを見たのではないだろうか。
撮影機材やキャンプ道具、10日分ほどの食料を積み込んだ車で私が石川県に到着したのは、地震発生から4日後の5日早朝だった。政府や石川県の馳浩知事が繰り返し「石川県への移動自粛」を呼び掛けていたが、現地を実際に見てみなければわからないと判断し、被災した酪農家を訪ねて回ることにした。主要なマスメディアで畜産の被災状況が報じられておらず、取材する必要を感じたからだった。
1月1日午後4時10分に発生したマグニチュード7.6の「令和6年能登半島地震」による被害は能登半島全域に及び、崩落や陥没、ひび割れなどで通行が困難な道路が続出する事態となっている。応急的な対応で徐々に通れる所が増えつつあるが、少なくない集落がいまだ孤立しており、完全復旧まで長期化することが予想される。
倒壊した建物も多く、珠洲市では6000世帯のうち9割が全壊または半壊し、輪島市の観光名所として知られる「輪島朝市」の朝市通り周辺では地震後の火災で約4.8haが焼失。200棟以上が焼ける被害となった。半島東部の沿岸部では津波による被害も発生しており、石川県全体での地震直接死は1月15日時点で208人にのぼり、安否不明者は22人を数える。厳しい寒さの中、避難所での生活が長引けば、災害関連死が増えることが懸念される。
▼ 牛が自由に水を飲めるようになり、牛舎に落ち着き
金沢市に隣接する内灘町の河北潟干拓地では11戸の酪農家が営農し、県内で生産される生乳量の半分を担っている。石川県酪農業協同組合によると、育成牛を含めた河北潟干拓地全体の飼養頭数は約2000頭。経産牛は約1300頭。同町は震度5弱の揺れだったが、地盤が軟弱な西荒屋地区や酪農団地では地震による液状化で上水道の配管が損傷し、1月1日の発災から断水状況が続いている。干拓地のため井戸はなく、酪農団地で使える水は上水道のみだが、復旧の見通しは立っていない。停電は免れ、搾乳作業や生乳出荷は発災直後から全戸が続けてきたが、断水の影響は深刻で農家の負担は増すばかりだ。
同町の「(株)ハーモニーウィズ」代表の澤田真さん(52)たち11戸の酪農家は断水後、農業用タンクなどを積んだトラックを自ら運転し、町が指定した給水場へ1日に何度も水を汲みに出掛けている。経産牛90頭(うち搾乳牛75頭)を飼養している同牧場では1日約10tの水が必要なため、断水は死活問題だ。澤田さんの父・幸男さんがこの地の酪農団地へ入植したのは1982年だが、このような事態を経験するのは初めてという。
澤田さんの牛舎では、発災から10日間ほどは汲んできた水をバケツで牛へ1日に4回与え、焚火や炭で沸かした温水で搾乳器やパイプラインを洗浄したり仔牛の代用乳をつくっていた。バケツで水を運んで与える行為は農家だけでなく牛への負担も大きい。そのためタンクにつないだホースから餌槽に水を直接流しこむ酪農家もいた。水道工事の業者を手配できた酪農家は牛舎内の水道管を、新たに設置した農業用タンクなどに接続し、井戸用ポンプを介してウォーターカップやボイラーを使えるようにした。タンクへの給水作業は必要になるものの、牛が自由に水を飲めるようになったことで牛舎内が落ち着き、牛の健康状態が改善したという。
昨年3月に就農した息子の拓真さん(26)は「牛舎から車で3分ほどの自宅も被災し、家も断水してる。近所には全壊の住宅があるし、もっと酷い被害を受けた酪農家もいる。大変な状況だけど諦めたくない」と話す。
干拓地は国が所有しているが、上水道は町が管理する。町上下水道局は「被害規模が大きく、復旧のための調査に時間が掛かるので断水解消の見込みを言えるような状況でない」と説明するが、酪農団地の農家は調査完了を待たずに地上配管で早期の通水を町に求めている。
北陸酪農業協同組合連合会(新潟県新潟市)は11日、内灘町の酪農家支援のためにミルクローリー1台を派遣。加えて、給水活動にボランティアで参加する運送会社が現れるなど支援の輪は広がっているが、根本的な解決には程遠い状況だ。
▼ 牛舎屋根はシートで覆われ、自宅も全壊の被害に
能登町や珠洲市など奥能登地域には発災前、16戸の酪農家が営農していたが、1月15日時点の出荷戸数は6戸にとどまる。珠洲市の5戸は出荷できる状態になく、能登町は6戸のうち2戸が地震発生から10日以上経ってようやく出荷再開に至った状態だ。能登半島全体も広範囲で断水しており、復旧の見通しは立っていない。停電が重なっている地域もあり、発電機に頼らざる得ない農家が点在している。集乳ルートも道路事情や出荷軒数の減少などで変更を余儀なくされており、地震発生から半月が過ぎた現在も能登半島は〝非常時〟である。
こうした困難な状況の中、能登町鶴町の西出牧場と柴野牧場では14日に生乳出荷が再開した。断水状態だった両牧場は、地震で破損した井戸の送水管を自力で修理し、清潔な水を確保。断水していた6日間はポンプを使って川から吸い上げた濁水を牛に与えるしかなかったという。
経産牛32頭(うち搾乳牛28頭)を飼養する西出牧場は3回目の生乳検査で基準をクリアし、出荷開にこぎつけている。発災からここまでの道のりはたやすいものではなく、地震で瓦が落ちた搾乳牛舎の屋根はブルーシートで覆われ、牛舎の横に建つ西出穣さん(36)の自宅も壁がはがれるなど の被害を受けている。現在は父の宏さん(67)と2人で被災した自宅に留まり、牛の世話を続けている。妻の都渡維さん(33)は昨年末から小学生の子ども2人と一緒に実家の長野県軽井沢市に帰省しており、能登町や自宅や余震が落ち着くまでは帰れそうもない。都渡維さんは忙しい穣さんの代わりにSNSでの発信を担当。牧場付近は携帯電話の電波が届くため、毎日のように穣さんへ電話し、言葉を選びながらも現地の様子を投稿している。
▼牛舎作業は危険と判断、強制乾乳し搾乳停止
生乳出荷を再開できた牧場がある一方、同じ能登町鶴町で営農する畑中牧場は再開の見通しが立てられないほどの被災状況だ。搾乳牛舎や育成牛舎、堆肥舎などの損傷が激しく、柱は折れ、コンクリートの基礎や床にひび割れが生じ、強い余震に耐えられない可能性がある。敷地内に建つ古い住宅も被害を受けているため、畑中直樹さん(42)は両親と妻の牧子さん(47)、3人の子どもと昼間は農業用倉庫で過ごし、夜は車の中で寝ている。余震で自宅や倉庫が倒壊する恐れがあるため、倉庫で過ごす時はすぐに外へ飛び出せるよう靴は履いたままだ。
決して快適とは言えない避難生活だが、「家族が一緒にいる方が安心できる」と畑中さんは話す。畑中さんたちにこれほどの恐怖を抱かせてた1月1日の地震は、立つことはもちろん、しゃがんだ姿勢でも何かにつかまっていないと飛ばされるほど激しかった。牧子さんは、玄関にいた3人の子どもを両手を抱え込み、揺れが収まるのを祈るような気持ちで待つしかなかった。
発災当時、畑中牧場の搾乳頭数は44頭(うち搾乳牛23頭、育成14頭)。地震直後の数時間は停電に見舞われ、強い余震が続く中での牛舎作業は危険と判断し、元旦の夕方から給餌量を極端に減らして強制乾乳させ、搾乳作業をやめている。育成舎は余震で倒壊の危険があるため、牛舎にいた育成牛は外につなぎ直している。断水もしており、ポンプで川から水を確保する状況は地震から半月が経過した現在も変わっていない。搾乳牛舎のバンクリーナーなどは自力で修理できたが、強い余震が起こるたび、畑中さんはこの地で酪農を続けていけるのか不安に襲われている。
▼ 擁壁からしみ出る水を集めて牛に給与
震源地に近い珠洲市唐笠町で営農する松田牧場の松田鉄郎代表(35)は新規就農者で、長野県農業大学校を卒業後、長野と石川の牧場で働いた後、2014年に独立。山の上に広がる松田牧場からは富山湾を一望でき、この景色と広い空間に惹かれて珠洲市で就農することを決めた。酪農と和牛繁殖が経営の柱で、発災時はホルスタイン経産牛40頭(うち搾乳牛30頭)、繁殖や採卵のための和牛60頭を飼養し、1日の出荷乳量は900kgほどだ。
元旦は妻と3人の子どもが暮らす金沢市からの帰路、珠洲市内で地震に遭い、津波避難のために近くの高台へ向かった。牧場では当時3人の従業員が勤務中で、携帯電話で全員の無事を確認。松田さんは日没後、コンビニが無料配布していた菓子パンをいくつか確保して牧場へ向かったものの、崩れた土砂が道を塞いでいたため、土砂を歩いて乗り越え、知り合いの住民に途中まで車で送ってもらい牧場にたどり着いた。牧場は停電しており、上水道も断水。上水道は浄水場からポンプアップされており、復旧の見通しは不透明だ。松田さんは従業員と協力して利用できそうな水源を探し、土砂崩れ防止用の擁壁からしみ出てくる水を集め、搾乳牛舎の乳牛へ与えている。水不足のため他の牛は放牧地に放した。
「放牧地には何本もの地割れがあり、牛舎も被災。4日にポータブルの真空搾乳機が届くまで搾乳ができず、牛や従業員に負担をかけてしまった」と松田さん。粗飼料自給率は100%なので牧草ロールの在庫には困っていないが、まだ生乳出荷の見通しが立てられないでいる。また、「市内から牧場までの道は通れるようになったが、隣の牧場につながる道は寸断。牧場主は孤立し、5日に自衛隊のヘリで救出された。牛たちがどうなっているか、誰もわからない状況」と松田さんは話す。
▼ 倒壊した牛舎で命を失った乳牛、身につまされる牧場主の悔しさ
朝から青空が広がる日を選び、松田さんと崩落箇所を慎重に乗り越え、徒歩で隣の牧場へ向かった。搾乳牛舎は屋根だけを残して倒壊しており、中をのぞくと崩れた柱などに挟まれた状態で数頭の牛が死んでいた。押しつぶされずにいた牛も呼吸は小さく、辛うじて命を維持している状況だった。道が寸断しているため、倒壊牛舎から牛を救出することはできない。ただ見ているだけしかできなかった。元旦の地震以降、能登半島周辺では余震が頻発し、孤立した牧場にとどまり続けるのは大きなリスクを伴う。牧場主は救出までの5日間、どんなに悔しく怖い思いでいただろうか。想像すると胸が苦しくなった。
能登半島にいる酪農家は先が見えない中、各人ができる範囲で最善の策を講じている。「被災した牛舎の修繕や建替えなど、資金面のサポートがあるかないかで営農継続の意志が決まる」と松田さんは話し、石川県の酪農家をこれ以上減らさないためにも、国や県が本気になって畜産農家の取り組みを支援し、復旧計画を早期に示してくれることを望んでいる。
DAIRYMAN誌 2024年2月号掲載(年齢は掲載時点のもの)