10年という年月、放置され続けた場所

今春も東日本大震災や東京電力福島第一原発事故の被災地に咲く桜を撮影してまわりました。
メディアでは「10年」というフレーズが使われ続けていましたが、実際に目にする〝被災地〟は地域によって復興のありように違いがあり、ひと言で言い表せない難しさがあると実感しました。

旅の最後は岩手県沿岸部から福島県へ移動し、浪江町津島地域の小阿久登・休石集落を訪ねました。
阿武隈山地にある津島地域は標高が高いため、隣接する飯舘村や川俣町山木屋と同じく桜の開花が沿岸部の平地よりも2〜3週間は遅いのです。

津島地域は全域が帰還困難区域に指定されていますが、同集落は特定復興再生拠点区域から外れているために解除の見通しが示されていません。
そのため除染は実施されておらず、水田や牧草地には草木が覆い茂り、住民の家屋周辺は猪によって掘り返され、ひどく荒れていました。
案内してくれた住民によると、浪江町津島地域の小阿久登・休石地区には合わせて12戸の方々が暮らしていましたが、この10年間で10名が避難先で亡くなったとのこと。
病気や高齢の他、ひとりは避難先から自宅へ戻っての自死で命を失っています。
原発事故前は集落で人が亡くなると隣近所で通夜や葬式の準備をするのが当たり前でしたが、避難を強いられたことによって住民の住居も散り散りになり、顔を合わせるのは誰かの葬式ぐらいだと言います。


地域を回る途中、共同墓地にも立ち寄りました。
ある墓石に刻まれた墓誌を見ると、明治23年から始まっていました。
住民によると江戸時代からこの地域に人が暮らしていたとのことですが、明治以前が記されていないのは、このあたりの住民が檀家になっていた寺が火事で焼け、明治以前の記録が無くなったためだと言います。
津島地域は戦後開拓の歴史もありますが、江戸時代からこの地で田畑を耕し、山を活かした営みが続いてきた土地でもあるのです。

案内してくれた方は避難先の福島市内に新しい墓地を購入し、自身はそこに入るつもりだと言います。
先祖だけでなく祖父母や両親の遺骨も、案内してくれた共同墓地にあるにも関わらずです。
理由を訊ねると「津島だと孫が墓参りに来られない」からと教えてくれました。
帰還困難区域は15才未満の立ち入りが認められておらず、娘夫婦が来やすい環境を優先し、津島地域外に墓を設けるのを決めたそうです。
原発事故は地域の繋がりだけでなく、先祖代々続いた家族の有様も断ってしまっているのです。
その影響の深刻さに胸が苦しくなりました。


自宅にも案内してくれましたが、ガラス窓を割って侵入した猪らによって室内が荒らされ、10年という月日が残酷に思えるほど荒廃していました。

故郷へ帰るには現実的に難しいと考える人が増えてきているとはいえ、責任ある立場の者が口を濁し続けていることが許せずに悔しいと、案内してくれた住民は言います。
原発事故によって先祖代々に渡って受け継げられてきた土地が、いまも帰れるのかどうかさえはっきりしない状況に置かれ続けている、その現実の苦しさを住民にだけ押し付けている、と…。


タイトルに使用した写真は浪江町津島地域の小阿久登で撮影した一枚です。
水田だった農地には4メートルを超える高さまで成長した柳が茂り、猪のぬた場が点在しています。
道路脇の桜は誰に見られることなく咲き、風が吹くたびに花弁を舞い散らせていました。
このような場所が日本国内にあることを忘れないで欲しい…この集落で暮らしていた方からの伝言です。