不信感の行く末〜これからもここに

2019.11.30

長崎県と佐世保市が川棚町を流れる石木川にダムを造る計画を立ててから、半世紀近い年月が経った。
県は計画の立案から今日まで石木ダム推進の立場を変えておらず、強制収用という手段を用いて、水没予定地とされる土地に暮らす住民と対峙している。

改めて、これまでの経緯を振り返っておきたい。

47年前の1972年7月、県は「予備調査はダム建設前提ではない」と地元住民に説明した上で、石木川周辺の地質などを調べている。
県が現地で予備調査をするのは2度目のことで、最初に計画した1962年の調査は、住民や町に知らせることなく実施。寝耳に水だった地元住民から県のやり方に反発が起こり、この時の調査は中止となっている。

そのため2度目の調査では、事前に県は住民側と「地元の了解なしではダムを造らない」とする覚書を交わし、地元の同意をとりつけてから調査を行った。住民はなし崩し的にダム建設へ進むことを当時から警戒しており、県は覚書を示すことで住民を信用させ、予備調査を受け入れさせたのだ。

・県と地元自治会とで交わされた覚書のコピー。川棚町長が立会人になっている。

予備調査から2年後の1974年、県は町に対して「ダム建設可能」と報告。翌年、国が新規事業として石木ダムを採択し、県は建設を前提とした立場を明確にしていく。
危機感を抱いた地元住民は「石木ダム建設絶対反対同盟」を結成。水没予定地域以外でもダム反対の訴えは共有され、ダム湖によって地域が分断される上流の住民も同盟に加わるなど、計画の撤回を求める活動も本格的に動き出していく。

県は当時、戸別訪問を繰り返し、住民を酒食接待の場に誘いだしては、計画に反対する住民の切り崩しを行なっていた。このような県の行動によって、石木川のほとりに暮らす住民のあいだには、疑心暗鬼が広がっていったという。反対同盟は「県職員面会拒否」の立て札を玄関に掲げて抵抗し、若者世代は交渉拒否の意志を示す「見ざる言わざる聞かざる」の三猿を描いたやぐらを建て、団結を誓いあった。

1982年4月、県は測量のための立ち入りを地権者へ求めるが、住民側は再三に渡って「ダムの必要性について話し合う」ことを要望し、測量を拒否し続けていた。県は9日に測量を計画したが、中止を判断せざる得ないほど、住民の抗議は激しかったという。
翌月、現地を訪れた県知事は、住民との話し合いの場で「地元に連絡無しで測量を行わない」ことを明言する。しかしその1週間後の5月21日、県は140名の機動隊を引き連れ、抜き打ち的に測量を行った。
地元住民は家族総出で抵抗。老若男女が一丸となり、測量を阻止するための座り込みを行った。子どもたちも自発的に学校を休み、阻止行動に参加。石木川の周辺では、機動隊員によって排除された住民の怒号や叫び声が響き渡った。
強制測量に伴う県と住民の攻防は1週間に及び、約束を反故にした県に対する住民の不信感はさらに高まることとなった。

・川原(こうばる)地区の公民館には強制測量時に撮られた写真が掲示されている。

今月17日、川棚町の公会堂で「石木ダム問題を断念させる全国集会」が開催され、県内外から700人ほどが参加した。

ゲストとして登壇した元滋賀県知事の嘉田由紀子参院議員は、知事時代にダム事業を見直した事例を紹介し、流域全体を活かして減災する治水政策を提言。同じくゲストとして講演した水源開発問題全国連絡会の嶋津暉之共同代表も、川棚川全体での治水対策が急務だと訴えた。

県の想定でも石木ダムは川棚川流域の8.8%しか対応できず、その8.8%という数値も怪しいと、嶋津氏は指摘する。川棚大橋から河口までの区間は堤防整備計画がないことから、仮に石木ダムがあったとしても、100年に一度の大雨が降った場合、最下流域では氾濫の危険性が高いというのが、その理由だ。
流域全体の治水安全度を上げるならば、巨額な予算をダム建設に投じるのではなく、優先順位をつけて堤防整備に充てるほうが現実的な選択だとゲストは訴え、講演は締めくくられた。

嶋津暉之氏の講演録(水源開発問題全国連絡会のウェブサイト)

集会で報告された嶋津氏の検証など、石木川のほとりに暮らす住民はこれまで機会あるごとに、根拠を示しながら計画の妥当性を県に問うてきた。しかし、ダム建設という仕組みのなかで、住民側が起業者らに対して意見を述べることができる公的な場は限りなく少ない。国への事業認定申請手続きでの住民説明会(2009年3月)や公聴会(2013年8月)は意見を一方的に述べる場に留まっており、それら意見を聞いて判断する側の人選は、同じ当事者であっても住民は関わることができないのだ。
県や佐世保市が実施する公共事業評価監視委員会に関しても、委員の任命者は事業者が兼ねており、公平な構成とは言い難い。


集会終盤、川原(こうばる)地区で鉄工所を営む松本好央さんが登壇し、土地収用法に基づく自宅の明け渡し期限を翌日に迎えた住民の心境と決意を述べた。

国が石木ダム事業を認可した1975年に生まれた松本さんは、強制測量の座り込みにも大人たちに混ざって加わっている。7才だった松本さんは当時、歯を食いしばり、小さな身体を強ばらせながら機動隊員らと対峙。最初は怖くて震えていたが、大声で自分の思いを叫ぶうちに怖さは消え、機動隊員に両手で抱えられて排除されても「オイたちの土地を守りたい」という思いは揺らがなかったという。
石木ダム問題とともに育った松本さんは、これまで数えきれないほど計画のおかしさを訴え、陳情し、様々な場面で住民の思いを伝えてきた。メディアに報じてもらう重要性を理解しつつも、一時は精神的に疲れ、反対運動から距離を置いたこともあった。伝わらないもどかしさに悩み、県への不信感や一向に変わらない現実に嫌気がさしたことは一度や二度ではない。
21才の時、同学年の愛美さんと結婚。通っていた高校は違うが、陸上部の練習場所となっていた大村市の陸上競技場でふたりは出会い、しぜんと付き合うようになっていった。愛美さんをはじめて自宅へ連れてきた時、いつも明るい彼女が緊張していることに気づいたという。田畑に立てられた「ダム反対」の看板や玄関先にある「面会拒否」の文字を見て、怖い場所に思えたと後で聞かされた。この土地で生活し続けるためにダム反対を訴えてきた松本さんにとって、それら文字は見慣れた景色の一部だった。愛美さんと出会ったことで、自分たちが暮らす日常が普通ではないと気づかされたのだ。


ダム問題がある事が当たり前だった私たち
普通の暮らしがどんなものなのか分からなくなってしまった私たち
妻に看板だらけの景色が普通ではないと気づかされ
普通の暮らしをしたい早くこの問題を終わりにしたい
そう思うようになりました

子ども達には生まれた時からいろんな思いをさせてきたと思います
本当に親として正しい事なのか悩んだ時もありました
子どもたちには同じ思いをさせたくない
早く終わらせたい
そのためにはたくさんの方の協力が必要になります。

「一人一人の力は小さく微力かもしれない でも集まれば大きな力になる」
私が尊敬する人からもらった言葉です。

ある友人からは
こうばるがすき!
賛成!
こうばるで楽しいことしよう!
賛成!
こんなふうに賛成!の言葉を増やしていきたい
反対反対!と言うよりも
賛成!って言葉は言いやすくてみんなに受け入れやすいと思うんです。
そんな言葉をもらいました
そしたら若い人も、今までよくわからなかった人も
仲間が増えて行くと思うんです。
伝え方は人それぞれでいいと思います。
今まで関心がなかった人にどう伝えるか!
だと思うんです。
同じ方向さえ向いていればいいと思うんです。
彼の言葉に力が湧きました
自分が求めていたものはこれだ!と思いました

無関心ではなくて興味を持ってもらえるように、
こうばるを見に行こうと思ってもらえるように、
こうばるにまた来たいと思ってもらえるように
こうばるがすき!こうばるを守りたい!
そういうふうに自然にみんなを巻き込んでいきたい
それでは遅い!って言われるかもしれませんが
遅いとは思っていません
私たちが住み続けていく限り遅くはありません

土地も取られ、家も取られてしまった今だからこそ
川棚町民、佐世保市民の皆さん、長崎県民の皆さん、
そして全国の皆さんに知ってもらえるチャンスだと思っています。
知事の一言で強制代執行ができてしまう今だからこそ
人としての在り方、石木ダムが本当に必要なのか?
きちんとした説明はなされているのか?
河川課長の発言はどういう事なのか?
問うていく時だと思うのです。

今日ここに集まって下さった皆さんと共にこれから先も力を合わせ、こうばるを守り続けることを誓います。
「私たちは、明日以降もこれまでと変わらない日常をこうばるで送り続けます」

心をひとつに!
頑張りましょう!
 

松本好央さんによる集会決意文より


松本さんは壇上に上がると、愛美さんと相談して考えた文章を住民代表として読み上げた。内容はこれまでの思いを凝縮したもので、川原地区に住み続ける意志を示して、決意文は締めくくられた。読み終えると、客席から賛同と応援の拍手が鳴り響いた。ホールを包むほどの拍手は、松本さんをはじめとする川原地区に暮らす住民たちを勇気づけ、前向きな気持ちにさせた。

・川原(こうばる)地区に暮らす松本好央さんが、地元住民を代表して決意を述べた。
・松本さんが決意表明を終えると、客席に拍手が鳴り響いた。


集会の翌日、川原地区の住民はマイクロバスに乗って県庁へ向かい、石木ダム建設の断念を求める集会宣言文を平田研副知事へ手渡した。

住民を代表して発言した岩下和雄さんは集会宣言文を読み上げた後、佐世保市の利水需要が下回っている現状を副知事らに訴え、「ダムの目的が失われているのに、なぜ住民は出ていかなればいけないのか」と、強い言葉でダムの見直しを求めた。

石木ダムは当初、佐世保市で17万トンの水が必要だということで計画されたが、現状の需要は8万トンを下回っており、ダムの計画根拠になった予測から9万トンも減少している。

岩下さんは治水に関しても、緊急性のある河川改修を先にやるべきだと訴え、ダムありきで進める県の姿勢を批判。
「付け替え道路の工事に、もう10億くらい使っている。そういった金があるのなら、河川改修をなんで先にやらないんですか?川棚川全体の堤防工事は、ダムを造るよりも安価です。危ないところから順次やればいいんです。ダムを造ることを前提にあなたたちはやっている。私たちは川原地区に住み続けたい、計画がおかしいと言い続けてきたのに、県は一方的に計画を進め、あなたたちが出ていかないのならば強制収用しますとやってきた。私たちは必要性について話し合いをしましょうと、それだったらいつでも話し合いに応じますと言ってきたのに」と、改めて立ち退く意志がないことを伝え、強制収用の撤回を求めた。

川原地区に暮らす住民から計画の見直しを求められた副知事は、理解を得る努力を続けたいと答える一方、利水については言及せず、石木ダムを造ることが一番治水効果が高いと従来通りの説明を繰り返した。さらに住民を前にして「行政代執行をするかしないかに関しては選択肢として排除しない」と発言。

住民が県庁を訪れた11月18日は、強制収用された住居の明け渡し期限日とされ、土地収用法では19日以降、川原地区に暮らす全13世帯の住居への行政代執行が可能だ。書類上はすでに土地や建物の所有権が移されているが、住民は移転を拒み、計画中止を求め続けている。

中村法道知事は今年9月19日に県庁で住民との面会後、川原地区全世帯へ〈書簡〉を送付している。送付した事実はメディアを通して報じられたが、中身は〈書簡〉という言葉から受ける印象とはほど遠い、県のこれまでの主張を一方的になぞった全世帯共通の文面だ。

住民たちは知事との面会時、真摯にそれぞれの思いを訴え、川原地区に暮らし続ける心境を自分の言葉で語っていた。全世帯がダム計画に反対の立場だが、ふるさとを守りたいと願う動機や理由はひとりひとり違う。
知事は石木ダム問題を解決するために「住民の理解を得るよう、努力していく」と事あるごとに話しているが、このような通知文を〈書簡〉として住民へ送付することが問題解決につながると、本気で思っているのだろうか。

知事は住民との面会を終えた直後に「改めて事業を進めていく必要があると感じた」と発言し、その場にいた記者たちを驚かせている。
県に対する住民の不信感は今にはじまったことではないが、面会後の対応や〈書簡〉の中身を見る限り、知事が求めている再面会は住民側にメリットをもたらすと到底思えない。県は1972年に住民と交わした覚書について効力を失ったとの見解を主張し続けており、このような姿勢を改めなければ、住民の理解は今後も得られないだろう。

県によると、書簡では住民が故郷を大切にする思いに理解を示した上で、8割の地権者が事業に協力して移転したことや渇水、洪水対策に対する県民の要望が強いとして事業に理解を求めた。生活再建や地域振興に誠意を持って対応するとしている。

長崎新聞 ー 反対住民に書簡送付 石木ダム事業 面会求め知事(2019.10.16)
・県知事が住民へ送付した「書簡」


11月19日。石木川のほとりに暮らす炭谷家は、いつもと変わらない朝を迎えていた。6時過ぎに子どもたちが起き出すと、家のなかは途端に慌ただしく、にぎやかになる。3人の子どもの母親である広美さんは子どもたちに朝食を食べさせるのに大忙しで、朝食を終えると、小学3年生の沙桜ちゃんにせがまれて髪を結んだ。小学1年生の瑛治くんはランドセルを準備し、保育園児の菜津希ちゃんは寝間着を脱ぎ捨て、裸ん坊で部屋のなかを走りまわっていた。そして7時のチャイムを合図に、子どもたちはいつものように登校していった。

ふつうの暮らしを続けていくこと、それが石木川のほとりに暮らす住民の抵抗であり、大切にしたい思いなのだ。彼らがここに住み続ける限り、炭谷家のにぎやかな朝は変わることがない。