午後3時38分

– 2019.3.11 –


あの日から8回目の3月11日は、昨年と同じく徳島市で迎えました。
カーラジオから流れてくる政府主催の追悼式を聞きながら、午後2時46分に黙祷。
目の前に広がる紀伊水道を眺めながら、地震後に押し寄せた津波の時刻にも再び手を合わせました。


午後3時38分。‬
‪あの日からの8年間、浪江町立請戸小学校の時計は同じ時刻を指したまま止まっています。‬
‪請戸地区も地震後に襲来した津波によって壊滅的被害が発生し、学校からおよそ6㌔離れた福島第一原発でも、この時間帯に第2波の津波が到達。‬
‪非常用ディーゼル発電機が水没し、各原子炉の交流電源が次々と失われていきました。‬


電源が失われた原子炉はメルトダウンが進行し、政府は翌朝、福島第一原発から半径3㌔だった避難指示を10㌔へ拡大しました。‬
‪津波によって地区全体が〝瓦礫の山〟となった浪江町請戸地区でも行方不明者の捜索が中断され、家族や関係者を探す人たちもこの場所を離れざる得なくなりました。‬

‪全交流電源を喪失してから24時間後の午後3時36分、建屋内に充満した水素によって1号機が爆発。‬
‪「絶対安心」が謳われてきた原発での爆発事故により、避難指示がさらに半径20㌔へと拡大していきました。‬
‪混乱の中、多くの住民が着の身着のまま沿岸部から避難し、先の見えない日々に直面することになります。


請戸地区で大規模な行方不明者捜索が実施されたのは、事故から1ヶ月が経った4月14日のことです。‬
‪重機を使った捜索が半径10㌔圏内で行われたのも、この日が初めてでした。‬

‪被災直後に同じ規模の捜索がなされていたならば…。‬
 
‪請戸小学校の時計が指し続ける8年前のあの時を思い続けることは、生き残った者の務めだと、私は思います。‬


請戸地区に隣接する双葉町中野地区も、津波によって集落の姿が大きく変貌した地域です。‬
‪多くの家屋が流出し、農地や墓所が津波にのまれました。‬

そして‪2013年5月に警戒区域が解除後、中野地区の景色は再び一変します。‬
‪黒いフレコンバックが日々運ばれてくる、除染廃棄物の仮置き場となったのです。


除染廃棄物を保管する「中間貯蔵施設」建設のため、先祖代々に渡って守り続けてきた土地を提供した方の墓参りに同行した際のこと。
墓参りを終えて避難先へと戻る途中、ため息混じりに呟かれた「故郷を二度奪われた」という声にならない言葉がいまも忘れられずにいます。‬