浪江駅前の新聞販売店には東日本大震災発生を報じる新聞が配達されずに積まれていた(2013.4.11)
警戒区域は3つの区域に再編
2013年5月28日午前0時。東京電力(株)福島第一原発の事故からおよそ2年2ヶ月ぶりに同原発がある双葉町の警戒区域が解除され、同原発の半径20km圏内9市町村に設定されていた全ての警戒区域が解消された。警戒区域の解除と避難区域の見直しは各自治体の意向で実施され、旧警戒区域は放射能汚染度によって新たに3つの区域に再編された。
年間の放射線被ばく量が50mmシーベルト超で5年後も年間積算線量が20mmシーベルトを下回らない地域は「帰宅困難区域」として今後5年以上の居住が厳しく制限され、住民であっても原則月1回程度の帰宅しか認められていない。また帰宅困難区域に比べて放射線量が高くない地域でも年間積算線量が20mmシーベルトを超えるおそれのある地域は「居住制限区域」として、避難の継続が求められている。「避難指示解除準備区域」と名付けられた年間積算線量が20mmシーベルト未満の地域では、立ち入り制限が解消されたものの寝泊まりは禁止され、現在もインフラの復旧が遅れている地域があり、住民は不自由な生活を余儀なくされている。
これら旧警戒区域内は国による除染特別地域に該当し、国は各自治体と協議調整を行いながら具体的かつ実効性のある放射性物質の除染が求められている。しかし取り除いた汚染土などの置き場となる「中間貯蔵施設」の建設が現在も進んでいないため、自治体によって除染の進捗状況に大きな差が現れ始めているのが実情である。
死を待つしかなかった牛たち
警戒区域が設定された2011年4月22日。南相馬市小高区で乳牛を飼養していた渡部浩さん(57)は20km圏内に設置された検問所を前にして、激しい怒りと悔しさで体を震わせていた。渡部さんは搾乳牛6頭を含む全9頭の乳牛の面倒をみるため、避難先から1~2日おきに自宅へ戻っていたが、この日を境に検問所から先へ行くことができなくなった。自宅は検問所から車で数分の距離にあったが、警察官は「ダメだ」の一点張りで、警察官が渡部さんの通行を許可することはなかった。南相馬市小高区に設けられた警戒区域は2012年4月16日まで続き、この間は住民であっても自由に帰宅することができず、無断立ち入りは罰金や罰則などが科せられていた。
渡部さんの妻・てる子さん(53)は当時を振り返り、夫である浩さんの思いを代弁してくれた。
「検問でうんとお願いしたらしいけれど結局駄目で…。『このままだと牛たちは生き死だべさ』と思いながら戻らざるを得なかった夫の気持ちを考えると、悔しさとつらさで胸がいっぱいになる。普段から苦しくても愚痴をこぼさない人だから、お互い当時のことはあまりしゃべろうとはしない。それでも夫は諦めきれなかったんだよね。最後までベコたちに餌と水を与えに行っていたぐらいだから。勤務先から家族が避難していた福島市へ来たときに、だんだん牛が痩せてきて惨めになったと話してくれたけど、ベコのこと考えると私は悲しさよりいら立ちのほうが大きかった。だって牛を外へ出しては駄目だと言われていたし、この思いをどこにぶつけていいかわからない状態だったもの。可能ならば餌と水を持って行きたいけれど…。私たちの家なのに入れないし、夫には牛たちは死を待つしかないと言われるし、どうしようもないよね。みんな黙っていてくれと思っていた。ただふっと気が緩んだときに牛の鳴き声が聞こえてくることがあって。東電からの補償があると組合は説明するけれど、子牛から大切に育ててきた牛を見殺しにしたこの気持ち、心の傷は金で買えるもんじゃない、そう言いたくなる。この怒り、つらさをどこへぶつければいいのか。小高へ戻っていいと言われたら、夫は戻るつもりだと言っている。年齢的なこともあるので牛を飼うかどうかはわからないけれど…」
渡部さん夫妻は2011年7月に実施された一時帰宅で、警戒区域指定後初めて帰宅が許された。バス乗車前に白い防護服を着せられ、滞在は1時間と決められた。それでも渡部さんは亡くなった牛たちに線香をあげなくてはいけない、その思いから一時帰宅を申し込んだという。
渡部さんは今でも検問所を無理矢理通らなかった自身を責めている。
「牛たちは、警戒区域が設定された日から1ヶ月も生きていられなかったと思うんだよね。一時帰宅時、牛舎をのぞいたら骨と皮だけがそこにあって、想像できないぐらい変わり果てた姿になっていた。浪江町の請戸地区では人間だって1ヶ月ぐらい放置されていたもんな。助かるものも助からなかったかもしれないし、その責任をどう考えたらいいのかわからないけれど、あのころの悲惨な状況を思い出すと、牛を飼っている以上は人間の責任もあるわけだよね。自宅のある小高は放射線量が高くなかったけれど、線量を考慮せずに一律立ち入り禁止になった。今だから言えるのかもしれないけど、もう少し別のやり方があったのではないと思う」
牛の姿が消えた渡部さんの牛舎(2013.3.25)
見通しが立たない生活再建
南相馬市小高区で国による本格的な除染作業が始まったのは2013年年8月末になってからで、地区内の話し合いで仮置き場が決まらないところは除染作業が頓挫し、作業の見通しが立たないでいる。小高区は区域再編後、山間部に近い地域が「帰宅困難区域」と「居住制限区域」に指定され、渡部さんの自宅を含む平地は「避難指示解除準備区域」という扱いになった。
現在、渡部さんは家族で南相馬市原町区にあるアパートで暮らしているが、警戒区域解除後はあまり自宅へ戻っていないという。
「自宅の壁はカビだらけだけどゴミの行き場が決まっていないため、家の補修も十分に進んでいない。取りあえず片付けはしたけれど、ただそれを持っていく所がないから、自宅敷地へ置いてくださいという状態。除染の前にゴミも片付けられない。だから何にも進んでいない。居住制限と避難準備に分けられても、そこから追い出されて居住できない期間は同じ。家も同じように傷む。区域は再編したけれど、営農を再開するための方針は決まらず、除染は住宅だけという。区域再編しましたから入れますという状態で、帰って何をすればいいのか。だから営農再開までは並大抵のことではないと思う。自分らの生活再建の見通しさえ立てられないわけで、その見通しが立たなかったら将来のビジョンもないんです」
旧警戒区域の一部は住民であれば自由に立ち入りが可能になった。しかし相変わらず”無人の町”といった印象が強い。聞こえる音と言えば、2014年開通予定とされる常磐自動車道の建設工事音だけだった(2013.3.25)
時は止まらず
旧警戒区域を訪ねるたびに、復興とは一体何だろう、どこの場所のことを言っているのだろう、と思う。旧警戒区域では、セイタカアワダチソウが生い茂る田畑が広がり、崩れた屋根瓦をブルーシートで覆っている光景も珍しくはない。自由な立ち入りが可能になった地域でさえ、今だ手つかずの所は多い。それは地震で壊れた上下水道などのインフラ復旧に始まり、町を覆う空気そのものと言ってもいい。
時間はときに残酷だ。一見すると2011年の3月11日から”時が止まった”かのように見える土地でも、2年と半年の歳月が流れ、その月日の分だけ人間は年を重ねていく。時間がたつほど再建は遠のき、故郷を離れていく人が増えていく現実がある。そんな故郷の現状を渡部さんは憂いている。
「復興、復興と騒いでいるけれど、もともと人口が減少し企業もこなかった土地。若い人の中には戻らないという人が多く、戻りたいと言っているのは年寄りばかり。働く場所があり、学校や病院、商品を買う場、それら生活の基礎があれば話は別だけど現実は違う。『ここは住めないからどっかみつけて住んでください』と言われたほうが前を向けるかもしれないと思うことがある。今はただ宙ぶらりんな状態。再編もインフラ整備をやりやすくするために、法律の縛りをなくす目的で変えたと思っている。われわれのように追い出された人間は、住める環境が整ったときに戻れるようにしてくれた方が良かったのではないかと思う」
*年齢は当時(記事執筆は2013年9月)