03 − 津島へ走れ

人の姿が消えた津島地区。この日、雪が残る国道114号を歩く犬を見かけた。飼い主とはぐれたか、置いて行かれたのだろうか。呼んでもこちらに来ることはなかった(2013.2.21)

生乳を1週間ほど廃棄してもらうかもしれない

2011年3月に発生した東京電力福島第一原発事故当時、阿武隈山地に囲まれた福島県浪江町津島地区では9戸の酪農家が暮らし、約300頭の乳牛が飼養されていた。

同地区の酪農家のなかで一番若い門馬秀昭さん(41)は、福島県立農業短期大学を卒業と同時に20歳で就農。両親(寿三さん=71、安子さん=68)が始めた酪農経営を引き継いでからは自動給餌機を導入し、2010年には省力化を目的に搾乳ユニット自動搬送装置を設置するなど、家族経営でゆとりある酪農を目指していた。片側20頭のつなぎ牛舎は1978年に寿三さんが建てた牛舎を増築したもので、普段の作業は門馬さんと寿三さんが行い、子牛の哺乳などは安子さんが手伝ってくれていた。事故前の総飼養数は60頭(うち搾乳牛は40頭)で、日乳量は約400kgだった。

3月11日の地震発生時、門馬さんは浪江町沿岸部にある請戸地区の農家へ堆肥を届け終わり、荷台が空になった2tトラックで自宅へ戻る途中だった。

「トラックの燃料が少なくなっていたので町の中心部にある農協スタンドへ入ると同時くらいにものすごい揺れが始まったんです。ブロック塀が倒れ、外で働いていた従業員たちが相撲をとるように互いの体を支え合っているのが見えました。揺れは10分ぐらい続いていたと思う。従業員は『家さ見に行ってくるから』と店を開けっ放しにしていなくなり、結局、燃料は停電のために入れられなかった。俺もすぐに帰ったが、堆肥作業があと30分遅かったら津波にのまれていたかもしれなかった」

自宅に戻った門馬さんは真っ先に牛舎を確認。幸いにして牛舎内に目立った異常は見当たらず、自宅もサイドボードが倒れたぐらいで済んだ。電気も水も通常通り使うことができ、津島小学校に通っていた3人の子どもは両親が迎えに行ってくれていた。富岡町へ働きに出ていた妻の和枝さん(39)もいつもの通勤ルートではなく、何度も遠回りすることになったが、夜には帰ってくることができた。

「夜の8時くらいだったかな。給餌と搾乳が終わって、家族とテレビを見ながら『大変だなぁ』と話していたら、酪農組合の職員が『クーラーステーションのクーラーが壊れて集乳できないから生乳を1週間ぐらいぶん投げてもらうことになるかもしれない。でもこれは補償が出ますから』と直接伝えに来てくれた。福島県酪浜支所は地震で天井が落ち、職員は死ぬかと思ったって話していた。翌日はいつもより30分遅く起きて5時半ころに外を見ると、すでに自宅前の国道114号をぞろぞろと車が走っているのが見えた。朝の段階では車が多いなと思ったぐらいで原発から逃げてきたとは思わなかった」

津島地区を通る国道114号は福島市と浪江町を結ぶ主要幹線道路で、津島地区は浪江町役場から同国道を西へおよそ28km走った距離にある。

門馬さんが目覚めたころ、浪江町役場ではテレビで”福島第一原発から10km圏内が避難指示”となったことを知り、国や県から一切の連絡がない中、町独自の判断で対象地域からの避難を決断していた。町は津島地区に災害対策本部を移す判断を下し、午前6時半ころに防災無線等を使って避難を呼び掛けた。

浪江町では町民の9割に相当する約19000人が避難対象となり、町が用意したバスだけでなく自家用車で避難した多くの住民が津島地区を目指した。

国道114号は避難する住民の車で渋滞し、大熊町から津島地区へ避難してきた門馬さんの妹は「6時間半近くかけて津島にたどり着いた」という。通常なら1時間もかからないことを考えると、尋常ではなかった渋滞だったことがわかる。

門馬さんの自宅には親戚20人近くが身を寄せたが、頼れる親戚などがいない人たちは地区内の公共施設や各集落の集会場に避難し、ペット連れの人たちは車で寝泊まりをする方も少なくはなかった。

2011年3月15日。福島第一原発から半径20〜30km圏内に屋内退避指示が発令。同指示は翌月22日まで続いた。

集会場の開放を願います

12日早朝、津島地区の中心部で酪農を営んでいた紺野宏さん(51)は行政区長という立場で避難民の受け入れ準備を始めていた。

「地震直後に近隣40戸ほどを回ったんだけど、みんな大丈夫だったので安心していた。ところが12日の朝5時半ころに役場職員が『集会場を開放してください。必要な物資の提供をお願いします。後ほど精算しますからよろしく』と告げに来たんだ。それから自宅前にある南津島上集会場の鍵を開けに行った。最初は素通りする車が多かったけれど、9時ころからだんだんと人が集まりだしてきたね」

国が指示した避難区域は12日午後6時半に福島第一原発から半径20kmに拡大し、人口約1500人だった津島地区に避難してきた住民は約8000人を数えた。 「経産牛を20頭(総頭数33)ほど飼っていたので、牛舎の仕事もしなくちゃいけなかった。作業自体は普段と変わりなく搾乳も朝と晩の2回行っていた。だから集会場に付きっきりという訳にはいかず、集まった人に『炊き出しをしてくれないかい』と声を掛けた。その中でいいよと言ってくれた人が10人ほどいたのかな。全く知らない人たちだったけれど、炊飯担当とおかずを料理する人たちの2班に分かれ、自主的に避難所の炊きだしをやってくれた」

南津島上集会場では紺野さんが借りてきた数台の2升炊き炊飯器でコメを炊き、おにぎりをこしらえて3度の食事とした。津島地区内の商店はカップ麺などの食料品だけでなく、しょう油や味噌などの調味料もすぐに売り切れてしまったという。

紺野さんは遠慮する避難住民に対して「コメはこちらで用意するから皆さんで工夫してどんな形でもいいから食事を出してください」とお願いし、足りないものがあれば地区中を探しに出かけた。南津島上集会場に身を寄せた人たちはピーク時で約230人を数え、紺野さんが用意したコメは最終的に60kgに上った。

避難住民のほとんどが着の身着のままの状態だったが、南津島上集会場には灯油ストーブが5、6個あったおかげで寒さに震えて夜を過ごすことはなかった。13日にはよくやく支援物資の毛布が南津島上集会場にも届けられ、各自に一枚ずつ毛布が支給された。

津島地区では人口が急激に膨れあがったことで食料品や生活用品が不足し、さらに電話も固定、携帯ともに通話が不安定な状況だったために外から入ってくる情報も少なかった。対策本部に詰めている役場職員でさえ、原発事故に関する情報はテレビから得ている状態が続いていた。

紺野宏さんが区長として避難所運営を行った南津島上集会場。この建物にピーク時は約230人が身を寄せた(2013.2.21)

オフサイトセンターから職員が避難

14日は低気圧の接近に伴い、津島地区は昼過ぎから雲が広がり始めていた。福島第一原発では電源喪失によって冷却機能が失われた原子炉が次々と損傷し、既に1号機と3号機が爆発していた。浪江町災害対策本部は原発事故による避難であるにもかかわらず、役場にあった放射線測定器を持参してこなったため付近の放射線量を把握できないでいた。

午後9時過ぎ、津島地区の南に隣接する葛尾村で大きな動きがあった。葛尾村役場に「大熊町のオフサイトセンター(緊急事態応急対策拠点施設)から職員が避難した」という情報が持ち込まれ、葛尾村長が全村民避難を決定したのだった。

(続く)

*年齢は当時(記事執筆は2013年3月)