02 − 悲鳴のような鳴き声を聞くのが辛かった

日没後、JR常磐線・浪江駅近くの陸橋から市街地を望んだ。街灯以外の明かりはなく、無人となった町を暗闇が覆っていた(2011.4.20)

大気中の放出された放射性物質

2011年3月13日。東京電力福島第一発電所では前日に1号機が水素爆発を起こし、先が見えない最悪の状況が続いていた。

浪江町立野の酪農家・宮田幸雄さん(49)は母のカネ子さん(73)、叔母の小旗良子さん(77)と自宅にとどまっていた。浪江町の沿岸部に暮らしていた小旗さんは前日に家族とともに宮田さん宅へ一時避難してきたが、避難による心労で体調を崩し、本人の希望で宮田さん宅に残っていた。

実兄から牧場経営を引き継いた宮田さんは、20年近くこの地で牛を育てていた。

「オレは二男だったので牧場は酪農学園へ進学した兄が継いでいた。だけど兄が酪農を辞めてしまい、当時サラリーマンしていた俺が実家へ戻って継ぐことになったんだ。ちょうど30歳だったかな。動物は昔から好きだったから牛を飼うことは何の問題もなかった。だけど酪農の勉強をしたことがないので最初は素人。酪農組合の獣医さんから酪農のイロハを教わり、少しづつ牛を改良して育ててきた」

地震直後から宮田さん宅を含む一帯は停電し、酪農仲間の佐藤克芳さん(63)が手に入れた発電機を借り受けて「何とか1日1回は搾乳できる」状況だった。当時は20頭の乳牛(そのうち搾乳牛は14頭)を飼養し、原発事故後は草のみを少量与えていた。配合飼料を与えると乳が張るため、生きるための必要最低限の量しか餌は与えられなかった。

1号機の爆発を受けて避難指示は福島第一原発の半径20kmに拡大していた。宮田さんたちが暮らす苅野地区も対象だったが、宮田さんと佐藤さんは牛の世話をするため自宅にとどまっていた。地区に6戸ある酪農家の中で福島第一原発から一番遠いところにある佐藤さん宅でも、その距離は直線で15kmも離れていなかった。

3月14日。3号機は前日の原子炉格納容器から蒸気を抜くベント操作により一時的に格納容器内の圧力が下がったものの、炉心への冷却水注入が追いつかず燃料棒が露出する”空だき”の状態が続いていた。そして午前11時1分、オレンジ色の閃光とともに3号機が水素爆発。大小のコンクリート片と粉じんが空高く舞い上がり、原子炉建屋周辺が黒い煙に包まれた。余震も頻繁し、14日までに発生した震度4以上の揺れは74回を数えた。

着の身着のままでの避難

3月15日は低気圧の接近の伴い、明け方から厚い雲が空を覆っていた。福島第一原発では午前6時ごろ、4号機が爆発し 、その後2号機も空だきの状態を脱せずに原子炉格納容器が破損する事態となり、大量の放射性物質が大気中へ放出された。原発事故の原因究明を目的として国会に設置された『東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(*1)』の調査によれば、この2号機からの放出が福島第一原発の事故によってばらまかれた全放射能量のかなりの割合を占める結果となった。周囲から人の姿が消え、残っているのは宮田さんたち一部の人間に限られていた。

政府は午前11時に福島第一原発の20~30km圏内の住民に対して屋内待避を要請。佐藤さんも避難を決意し、長男家族と母が先に避難していた南相馬市へ向かった。

「南相馬市の馬事公苑へ辿り着くと『ここでは屋内待避にならない』と言われ、原町にある石上第2小学校へ避難した。馬事公苑には浪江の顔見知りがけっこういたが、学校へ移る段階でバラバラになった。どこへ避難しろという指示が届いていたわけじゃないし、結局、自分たちで避難先を見つけて潜り込んだような感じだった。学校で一晩泊まって、翌朝配給されたご飯を食べていると、校門前のコンビニ駐車場に大型バスが5台ほど止まっているのが見えた。もしかしたらバスでどこかへ連れていかれるんじゃないかと思っていたら、やっぱりそうだった。で、どこへ行くのかと聞いたら、その時点では『わかりません』、出発する時間も『わかりません』なんだよ。避難所単位で避難先が見つかった順に出て行くというのだが、誰に聞いてもいつ順番が来るのか分からない。その後、車に燃料があり目的地が決まっている人は出発してもいいと言われたんで、バスでどこさ行くのか分からないんだったら先に出ようと決めたんだ。長男家族と長男の嫁家族は郡山市へ。俺らは母を連れて親戚がいる千葉の館山市へ向かった。後で聞いた話ではバスが出たのは夕方で、夜中にたどり着いた先は群馬県片品村。当時の片品村はかなりの積雪があったからとても寒かったろうね」

先に紹介した委員会が実施した避難者アンケートには、佐藤さんが経験したようなリーダー不在の避難の様子や十分な準備が出来ずに”着の身着のまま”の状況で避難させられた住民の声が数多く寄せられている。また同委員会による報告書では「被害が拡大していく課程で避難区域が何度も変更され、多くの住民が複数回の避難を強いられる状況が発生した。この間、多くの住民は事故の深刻さや避難期間の見通しなどの情報を含め、的確な情報を伴った避難指示を受けていない」と避難時の問題点を指摘している他、数日で自宅へ戻れると思っていた住民がいたことも記されている。

苅野地区のある牛舎を訪ねると、餓死した乳牛が牛舎に横たわっていた。その中、一頭の牛が衰弱しながらも生きながらえていた。迷った末、ロープを解いた。後日、畜主に報告し勝手な振る舞いを詫びた(2011.4.20)

新しい命の誕生を見届ける

一方、宮田さんは15日以降も自宅を離れることなく母と叔母の3人でとどまっていた。

「ときどき近所で残っている人が『どうなるんべ』とやって来たけれど、みんな『どこへ行けばいいべか』と困っていた。『とりあえず津島だな、津島が駄目だったら南相馬か相馬へ行ったほうが無難だべな』と言ったものの、みんなも情報が全く入っていなかった」

宮田さんは佐藤さんが戻ってくるのではないかと思い、20日過ぎに避難先の佐藤さんと連絡が取れるまで、毎回発電機を佐藤さん宅へ借りては返しに行っていた。

「わが家の牛はそれなりに草を与えていたので反すうもして、それほど鳴かなかった。でも他の方の牛舎へ近づくと牛の鳴き声が聞こえてきて辛かった。腹が空いたという鳴き声じゃなく、悲鳴のような鳴き声だった。だからなるべく牛舎の近くには寄らず、牛に人間が来たと思わせないようにした」

苅野地区では地震の影響で12日から水道が使えなくなっていた。そのため宮田さんは自宅から4kmほど離れた福島県酪農協浜支所へ通って水をくみ出して運び、自分の牛へ与えていた。その行き帰りでたびたび”野良牛”となった和牛と遭遇した。あるときは「道を埋め尽くすほどの大群と出会い、車が前へ進めなかった」こともあった。

「和牛屋さんはいち早く舎外へ出しちゃいましたからね。一方でホルスタインの場合はどの牛舎もつないだままだった。牛が勝手に出歩き、他所様に迷惑をかけちゃいけないという思いが皆さん強かったんです。そのためには牛をつないでおくしかなかった。搾れないし、断水しているので餌だけやってもどうしようもない。殺すのを早めるわけにもいけないし、あの状況では何にもできないですよ…」

3月下旬。浪江町副町長が自衛隊員を伴って宮田さんの自宅を訪れた。それまでは町中でパトロール中の警官と会っても注意されることはなかったが「この時に初めて町から避難を促された」と言う。

宮田さんには自宅を離れる前にどうしても確認しておきたいことがあったため「今すぐ避難できない」と白い防護服姿の副町長へ告げた。

「来月4日には間違いなく出っから、それまではここにいる」と最後に宮田さんは言った。

4月4日。予定通り始まった牛のお産は手が掛からず、無事に新しい命が誕生した。宮田さんはこれまでホルスタインの子牛が母牛から乳を飲む姿を見たことがなかった。乳牛は生まれるとすぐに母牛から引き離して育てるからだ。原発事故後、子牛が産まれたのは2頭目だったが、最初の子牛を産んだ母牛は乳を飲ませることを嫌がった。この日、牛舎に隣接するパドックには母牛だけでなく数頭の乾乳牛もいたが、生まれたばかりの子牛を他の牛も一生懸命舐めて乾かしてくれた。そして母牛は嫌がることなく子牛に乳を与えた。代用乳で育てていた子牛も、この母牛から乳を吸った。

「これで大丈夫だと安心した。これで生きながらえてくれると思った。それから全頭をパドックに入れ、水と餌を置けるだけ置いて避難しました。その年の7月、一時帰宅した際にほとんどの牛が牛舎を離れることなく生きていました。パドックの柵が倒れて自由になっていたんです。2頭の子牛も生きていた。複雑な心境だったけれど、やはりうれしかった」

(続く)

*1)東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(通称・国会事故調)

*年齢は当時(記事執筆は2013年2月)