16 − 検査の継続と情報公開で信用回復に努める

酪王乳業の本社工場。中庭には福島県を代表する「酪王牛乳」と「酪王カフェオレ」のモニュメントが並ぶ(2014.4.10)

商品を支援物資として住民に配布

酪農乳業(株)は福島県酪農業協同組合の乳製品製造・販売部門を分離し、2007年に子会社化して誕生した県内最大の乳業会社である。そのため酪農家との結びつきも強く、企業理念に「酪農家とお客様を結ぶ企業」との言葉がうたわれている。東日本大震災と原発事故という未曾有の危機に直面した福島県を代表する乳業会社を取材した。

2011年3月11日。各地に甚大な被害をもたらしたマグニチュード9.0の強い揺れは、東北地方で3分以上も続き、国交省の調査では阪神淡路大震災や新潟県中越地震の7~10倍以上も長かったことが明らかになっている。

酪王乳業の本社と工場がある郡山市では震度6弱を観測。地震によって郡山市内でも多数の家屋が倒壊し、停電も一部地域で発生。地震による直接の犠牲者は市内で1人だけだが、建物の全壊は2,433件に上り、半壊認定を受けた建物は2万件を超えるほどの被害となった。

強い揺れのため、酪王乳業では従業員を屋外へ全員避難させる処置がとられ、揺れが収まってから行われた被害調査では、工場内のタンクや配管が複数箇所でずれ、破断している配管も確認された。出荷を待つばかりだった商品は床一面に崩れ、つぶれた紙パックからこぼれた牛乳などで大量の商品が破損。酪王乳業は製造や商品出荷ができる状況ではないと判断し、工場の操業を停止。午後4時には従業員の一時帰宅が実施された。電話は固定・携帯ともにつながらない状況で、従業員たちが家族の安否確認をできずにいたためにとられた措置だった。

出荷ができなくなった商品は翌日から手作業でひとつずつ開封され、分別廃棄された。廃棄は商品だけにとどまらず、工場内のタンクに入っていた原乳などもすべて対象となり、廃棄量は約108tに及んだ。廃棄を免れた一部の商品は、支援物資として近所の住民に配布された。物流が止まりスーパーやコンビニの棚から品物が消える事態となっていたため、緊急支援物資として供給した酪王乳業の商品はどこでも歓迎され喜ばれた。

苦渋の選択ー他県産生乳を原材乳に

酪王乳業の工場では製造再開に向けた努力が続けられ、地震から1週間後の3月18日に51tの県産生乳が震災後初めて工場へ搬入された。工場の修復が終わり、生産ラインを稼動できる状態となったのだ。当時は福島県内でも燃料不足が深刻となり、全ての集乳車を動かせる状態ではなかった。そのため県内酪農団体によるプール集乳が行われ、出荷できた酪農家は一部に限られた。それでも集乳と工場再開の知らせは、県内の酪農家や乳業関係者を安堵させた。翌19日には52tの生乳が搬入。工場の生産ラインが動かされ、震災から8日目にして酪王乳業の乳製品がパック詰めされた。

しかし同日の午後になって、福島県川俣町の原乳から当時の基準値を超える放射性ヨウ素131が検出されたと政府が公表。福島県は国の発表を受けて県産乳の出荷及び販売の自粛を関係団体へ要請し、酪王乳業も動き始めたばかりの生産ラインを止める措置を行った。福島県は同日中に緊急のモニタリング検査を県内37市町村で実施。その結果、複数箇所で当時の基準値を超える放射性ヨウ素が検出され、政府は21日に福島県産乳の出荷停止を指示した。工場再開後にパック詰めにされた商品などは流通に乗ることもなく、再び廃棄となった。

酪王乳業は22日、原乳調達について話し合う理事および役員の会議を緊急に開き、他県産の原乳で工場を動かすことを決定した。福島県を代表する乳業会社としては苦渋の選択ともいえる判断だったが、1日も早く顧客に商品を届けたいという強い思いがあった。スーパーなどでの品不足は依然として続いていたのだ。

会議翌日、東北生乳販売農業協同組合連合会管内の岩手県から原乳31tが酪王乳業の工場に搬入され、24日から生産ラインの再稼働が行われた。しかし販売するためには、主力商品である「酪王牛乳」の紙パックに記された”福島県産の乳脂肪分3.6%以上の牛乳です”を隠す必要があった。そのため従業員を総動員して無地のシールで該当箇所を隠す作業が行われた。

県内に出されていた出荷制限は安全が確認された地域から段階的に解除され、4月27日には避難区域を除いた県産生乳のみでの製造が再開された。岩手県産から福島県産に切り替わっても商品の売り上げが落ちることはなかった。3月は工場の稼働が月半分ということもあり、前年の半分近くまで売り上げが減少。出荷が再開された4月にはV字回復となり、前年同月の7割まで売り上げが戻っていった。極度の品不足は解消していたが、商品が売り場に並ぶとすぐに売り切れるような状態だったという。

酪王乳業(株)取締役経営管理部長の鈴木信洋さんは「震災から3年で一区切り」と語る(2014.4.10)

状況を一変させた肉用牛への汚染稲わら給餌

しかし7月になって状況が一変する。7月8日に南相馬市の畜産農家が東京都内の食肉処理場へ出荷した肉用牛11頭から基準値を超える放射性セシウムが検出されたのだ。検出値は最大1kgあたり3,200ベクレルで、出荷された肉から基準値を超える放射性物質が検出されたのは初めてのことだった。出荷に当たっては牛の体表を放射線検査機器で測定。安全が確認された牛だけを出荷しているとうたっていただけに、消費者が不安に思うのも当然といえた。県と国による調査で、この農家では高濃度に汚染された稲わらを飼料として与えていたことが判明。その後、放射性物質に汚染された稲わらを給与していた農家が次々と見つかり、県は緊急立ち入り調査が終わるまで肉用目的の牛の出荷停止と移動の自粛を生産者及び生産者団体に対し要請する事態となった。

酪農乳業の取締役であり経営管理部長の鈴木信洋さんは当時を振り返り、この稲わら問題以降それまで上向きだった売り上げが減少に転じたと説明する。

「流通しているものは安全とうたっている中、肉がスルーしてしまったことで、その信用が壊れてしまった。肉と乳は別の物だが、牛というイメージから、その影響はわれわれ乳業も大きかった」

信用の回復には継続した検査と情報公開が何よりも必要だと、鈴木さんは語る。福島県は2011年3月から現在まで県産原乳のモニタリング検査を週1回継続して実施しているが、酪王乳業も出荷が再開してしばらく経って商品の自主検査を行っている。自主検査を始めた当初は福島県内に十分な量の検査機器がなく、宮崎県衛生環境研究所や愛媛県原子力センターまで商品を送り、検査を行ったこともあった。現在は酪農乳業としての自主検査は行っていないが、代わりに検査態勢が整った郡山市保健所による商品検査が週1回実施され、主力商品である「酪王牛乳」と無作為で選ばれた商品の計10品が測定され、検査結果は酪王乳業のホームページに随時公開されている。

測定に使用される郡山市保健所の検査機器はゲルマニウム半導体検出器で、低レベルの放射線でも計測できることが特徴だ。検出下限値はその時々の環境や測定物によって変化するが、「酪王牛乳」の場合は放射性セシウムを1.5~2.5ベクレルのレベルで測定している。そして検査が始められてから今日まで検出下限値を上回ることは1度もなく、結果はすべて「検出せず」となっている。

秋晴れの下、4年ぶりとなる「酪王まつり」が酪王乳業の敷地内で開催された。開場された午前9時から多くのひとでにぎわい、来場者は7,000人を超えた(2014.9.28)

消費者に事実を伝え、お互いの理解を深める

酪王乳業は震災以前から工場見学の受け入れや牛乳についての出前講座を消費者に対して行っていたが、震災以降は独自の活動として保育園などで保護者向けの講演も始めている。講演者として保護者の前に立った鈴木さんは、それらの活動を通じて消費者と生産者とが直接話す必要性を痛感したという。

「福島県の酪農家や酪農団体が、飼料に細心の注意を払っていることを知らない消費者はまだまだ多いと実感しました。でも、ちゃんと説明すると安心してくれるんです。知らなかった、と。県内の乳業メーカーとして地元の方々と共に生きていくためにも、消費者に正しい情報を伝えることが何よりも大切だと思っています」

講演を聞いたひとりの母親が、アンケート用紙に情報を知って安心したと記入していた。

「乳牛の餌がしっかりとした物で検査していることがわかった。逆に他県のよりも安全なのかなと思い、これからは以前のように酪王牛乳を購入しようと思います」

この母親は講演前まで放射能汚染が心配で、県外の牛乳を選んで購入していたという。鈴木さんは「安全だからと押し付けるのではなく、事実を伝えて消費者の理解を深めることが重要」と話し、これからも積極的に福島県の乳業会社として説明していく考えだ。

(続く)

*年齢は当時(記事執筆は2014年4月)