08 − 原発事故で壊された、牛がいる暮らし

警戒区域指定後、20km圏内へ続く道路にはバリケードが築かれた。中にはバスを使ったバリケードもあった(2011.5.7)

当初は原発より津波が心配だった

南相馬市小高区大富地区で乳牛を飼養していた渡部浩さん(57)は、東京電力(株)福島第一原発の半径20km圏内に避難指示が出された3月12日以降も、家族そろって自宅にとどまり続けていた。自宅や牛舎は田園に囲まれた緩やかな丘陵地帯にあり、福島第一原発までの距離は直線でおよそ18kmだった。地震の影響で牛舎用にくみ上げていた井戸が使えなくなったが、他に目立った被害はなく、電気や市の上水道は平時と同じように使うことができた。そのため日常生活に不便を感じることはなく、福島第一原発の事故はテレビの中の出来事のようにも思えたという。

妻のてる子さん(53)は原発事故よりも津波による被害の方が心配だった。てる子さんの実家は小高区の海岸近くにあったため、実家と連絡が取れないことに不安を感じたてる子さんは地震後、車で実家へ様子を見に出掛けた。しかしJR常磐線小高駅近くの陸橋で警察官に行く手を止められ、実家に行くことはできなかった。陸橋の海側まで津波が押し寄せ、道路には津波で運ばれた車両が転がり、津波の傷跡が生々しくひろがっていた。小高駅周辺ではJR線路を挟み、海側は津波による被害を受けていた。

「あのときはとにかく実家の人たちの無事を信じるしかなかった。後日、高台にあった家屋は実家を含めて数戸かしか残らなかったと教えてもらった。高台の家屋はしばらく孤立し、まるで離れ小島のような状況だったみたい。亡くなった方もおり、実家が助かったとは大きな声では言えないけれど、家族が無事で安堵しました」

渡部さんの自宅脇には増築を重ねてきた牛舎があり、牛舎の裏に広がる2ヘクタールほどの畑は渡部さんの両親が雑木林を切り開いて築き上げてきた。「開墾当時は抜根の道具を役場から借りるなどして少しづつ畑を広げていった」と、てる子さんは義父から聞かされてきた。

水の便が悪い土地で井戸水の量も決して多くなかったため、乳牛へ水を与えただけで水量不足を来たし、洗濯ができなくなることもあった。集落に市の上水道が通ったのは10年ほど前で、それからは豊富に水を使えるようになった。

渡部さんの父親は1996年に他界。震災当時は渡部夫妻のほか、母のキミエさん(84)さんと長男の拓史さん(26)、地元の高校へ通っていた三男の尚仁さん(16)の5人で暮らしていた。

酪農は両親が始め、渡部さんは高校卒業と同時に就職した。両親が酪農経営を引退した後、それまで飼養していた20頭弱の乳牛を半分に減らし、朝の搾乳は渡部さんが出勤前に行い、昼間はキミエさんやてる子さんが作業を行ってきた。3人の息子も積極的に牛舎作業を手伝い、家族総出で行う牧草の収穫作業は毎年の”恒例行事”になっていた。2011年3月時点で搾乳牛6頭と育成牛3頭を飼養。規模は大きくないが家族の中心に牛がいる、そんな家庭だった。

南相馬市小高区の警戒区域解除初日。小高駅近くの陸橋を訪ねると、津波で運ばれた車が当時の姿で野ざらしになっていた(2012.4.16)

屋内待避指示を受け、家族で自宅を離れる

渡部さんは毎朝5時に起床し、搾乳作業などを済ませて7時半に出勤。てる子さんは特別養護老人ホームで介護の仕事をしており、介護の仕事が終わり次第、てる子さんが自宅へ戻って夕方の搾乳をしていた。

てる子さんは言う。「両親から『お前たちで酪農をやれ』と言われてから、これまで夫婦で力をあわせて牛を育ててきた。やっと軌道に乗ったというか、2人だけでやれるようになったときに大震災が起こった。夫は勤め人だけれど、牛を飼うことにこだわりがあった。”ラクノウ”ではなく”クノウ”だと言いながらも続けてこれたのは、土地を守りたいという思いが強かったからだと思う。牛を飼う暮らしが家族の根っこにあった。それが原発事故ですべて壊されてしまった…」

3月11日午後は通常通り作業を行い、絞った乳はバルククーラーへ入れた。停電にならなかったため、搾乳機やバルククーラーはいつも通り使うことができた。夕方、酪農組合の職員が訪ね「集乳車は動かないけれど、乳を絞ったら取りあえず冷やしておいて下さい」と、渡部さん夫妻に直接伝えた。翌12日、渡部さんは普段と同じように搾乳を済ませてから出勤し、てる子さんも特別養護老人ホームの職場へ向かった。そしてその日の夜、集乳の見通しが全く立たなかったこともあり、2人の判断で生乳を廃棄した。

3月15日、福島第一原発から半径20~30kmに屋内待避指示が出たことを知ったてる子さんは、自宅から離れることを決意。長男が運転する車で、家族は渡部さんの弟家族が暮らす福島市渡利地区へ向かった。飯舘村大倉にある職場へ出勤していた渡部さんは、勤務を終えてから福島市へ向かった。福島市での避難生活は4月いっぱい続いたが、渡部さんだけは家族と離れて3月下旬から勤務先の宿直室で寝泊まりをしていた。車の燃料を節約するためと、牛舎に置いてきた牛の世話を続けるためであった。自宅へは勤務が始まる早朝、1~2日おきに帰っていた。

配合飼料は注文したばかりで余裕があり、牧草も十分確保してあったので餌の心配はなかったが、震災1週間後から上水道が出なくなっていたのが気がかりだった。そのため職場で灯油ポリタンク12個に水を入れ、牛舎作業の際はそれらタンクを軽自動車に積んで出掛けていた。勤務先から自宅までは車で約40分ほどあり、午前6時ごろに牛舎へ着くと、毎回乳房を張らした牛たちが鳴いていた。乳を絞っては棄て、牛に2日ぶんの餌を与え、水は1頭ずつバケツで与えた。持参した水はあっという間になくなった。ただ1~2日おきに餌を与えていたため、牛はそれほど痩せてはいなかった。全て子牛から育てた自家産牛で、渡部さんには大切な家族ともいえる存在だった。自宅周辺は人の姿がなく、まだ薄暗い時間に集落へ到着しても、住宅の窓から漏れる明かりはどこにもなかった。

警戒区域解除後に南相馬市小高区のコンビニストアで撮影。割れたガラス窓から店内をのぞくと3月11日付の新聞が残る先に壊されたATMがあった(2012.4.25)

警戒区域の指定後、自宅に帰れず

福島第一原発の半径20km圏内が「警戒区域」に指定されるというニュースは、渡部さんを不安な気持ちにさせた。3月中旬ごろから自宅手前2kmぐらいの場所に警察が検問所を設けていたが、これまでは特に問題なく通行することができた。無人となった町では窃盗が相次ぎ、コンビニエンスストアに何者かがガラスを割って侵入し店内のATMが破壊される事件も起きていた。渡部さんの自宅は泥棒の被害はなかったが、空き巣などの被害は商店だけでなく民家にも及んでいた。

警戒区域などを管轄する3つの警察署の統計では2011年3〜12月までの「空き巣」の認知件数は前年の約11倍、600件超に上った。しかし実際に検挙されたのは55件のみで、そのほとんどが野放し状態だった。許可なき者の立ち入りを禁止する警戒区域の指定は、このような状況を改善するためでもあったという。

4月22日。渡部さんはいつものように水を詰めたポリタンクを車に積み、寝泊まりをしていた勤務先から自宅へ向かった。空は雲に覆われ、自宅から近い馬事公苑に着くころにはすっかり空が明るくなっていた。

「いつもと同じように馬事公苑手前の検問所を通り過ぎようとしたら、京都府警から応援に来ていた若い警官に止められた。『許可がないと通行できない』の一点張り。牛の世話だと説明しても、駄目だと言うんだ。警戒区域になっても入れてもらえるんじゃないかと、かすかに期待はしていたが駄目だった。検問所から車で5分も走ったら自宅なのに。相手の仕事も分かるが、それでも牛を見殺しにはしたくない。検問所の警察官に言ってもらちが明かないのは分かっているけれど、俺も引き下がるわけにはいかない。そうやって20分ほど押し問答をしたと思う。前日まで、牛を外へ放すことも考えていた。でも、周りに民家もあるし、後でいろいろとトラブルが起きたら責任問題になりかねず、結局、国などから何かの支援があることを期待して、通いながら面倒を見てきたのに。警戒区域が設定されたら牛がどのような扱いになるのか、事前にはっきりと示してくれていたらと、今になって思うことはある。ただ悔しいです」

この日、渡部さんは自宅へ帰ることができず、来た道を引き返した。てる子さんは後日、福島市の避難先で夫の渡部さんから22日から警戒区域へ入れなくなったことを聞かされた。それがどんなことを意味するのか、てる子さんも痛いほど分かった。その日から夫婦の間で牛に関する話は避け、残してきた牛について話をすることはなくなった。

(続く)

*年齢は当時(記事執筆は2013年8月)