07 − 俺たちは見棄てられたのか

川俣町山木屋地区で酪農を営んできたHさん。牛舎に貼られたカレンダーには出荷停止を示すマークが並んでいた(2011.4.19)

目に見えない放射能に怯える

2011年4月2日。浪江町津島地区と飯舘村にとどまっていた酪農家と福島県酪農農業組合(福島県酪)の幹部との話し合いが、それぞれの地元で原発事故後初めて行われた。福島県酪からは代表理事組合長の但野忠義さん(65)ら7名が参加し、津島地区では全9戸の酪農家が津島支所に集まった。

当時、福島県酪の常務理事だった角田義勝さん(65)も会合に参加した。

「震災後、職員は何度か現地へ赴いていたが、自分を含め組合幹部が出向くのは初めて。とにかく組合員と会って生の声を聞くことが目的だった。津島に入ると人の姿がなく、車も走っていない。それがとても異常に見えた。組合員は自分たちの意志でとどまっていたが、情報が全く入ってこないひどさと厳しさを特に訴えていた」

原発事故後、政府は3月15日に東京電力(株)福島第一原発から半径20~30km圏内の地域に屋内待避を指示。津島地区は30km圏内に入るか入らないかの距離にあったが、3月15日に浪江町の災害対策本部が二本松市へ移ってからはほとんどの住民が避難し、残っているのは畜産農家ぐらいだった。

角田さんにとって「津島は第2の故郷」ともいえる場所だった。大学卒業後、福島県酪入りし、新卒獣医として最初に赴任したのが津島地区だったのだ。津島支所の隣に建つ職員宿舎で14年間暮らし、津島の酪農家と青春時代の苦楽を共にしてきた。だからなおのこと、この地への思い入れは強かった。その第二の故郷が困窮の極みにあった。

「当時はよく分からないことばかりで、津島の酪農家はみんな『屋内待避だから建物の中にいればいいんだべ』ぐらいの感じでいたのさ。一方、メディア関係者は誰も津島に入ろうとしなかった。だから津島地区の実際の状況は当事者以外よく分からなかった。われわれが津島へ行くと決まってから、現状を知ってもらいたくて複数のメディアへ相談したんだ。しょっちゅう取材を受けていたからね。しかし同行してもいいという人がいねえんだよ。代わりにカメラを渡すから録画してくれと言われたり。その代わり飯舘村には来たんだよ。津島へは来ずに。俺はそうじゃねえぞと言ったんだけど」

4月2日の会合では組合員の口から何度も”生殺し”という言葉が発せられ、”見棄てられている”と感情をぶつける組合員もいた。

「組合員のみんなからは『来るのが遅い』と怒られた。だけど当時は自分たちも精一杯だった。携帯も固定電話も十分に使えず、津島には役場職員や郵便配達員も立ち入らない状況が続いていた。とにかく外の情報を欲しいという欲求みたいなものを強く感じた」

角田さんは3月11日から原発事故関係の出来事を記録として残すつもりで日誌をつづっていた。日誌には見えない放射能におびえながらやるせない思いをぶつける組合員の言葉が記されている。

・50年の酪農人生がなくなってしまう。

・浪江町に土壌検査を依頼したが、30km圏内は検査できないと断られた。

・電話回線が不通でNTTに回線復帰を要請したが対応できないとのこと。

・20~30km圏内の対応は不明瞭。生殺しの状態である。明確にしてもらいたい。

角田さんが震災後から書き始めた日誌には、原発事故に翻弄された酪農家や乳業関係者の思いが記されている(2013.5.27)

独自の判断で家畜移動を決定

津島地区に残って乳牛の世話を続けていた組合員は情報不足を訴える一方で、牛舎にいる家畜の移動を福島県酪へ強く要望した。牛がいなくなれば、一時的に自分たちも避難できると誰もが思っていたのだ。

このころ、国や県は当該地域からの乳牛移動についての見解を示してはいなかった。しかし福島県酪は独自の判断で20~30km圏内にいる育成牛と初任牛を避難移動させることを決定し、4月8日から順次県内の施設へと移動を始めた。避難先は県内にある2つの屋内施設に限定し、当該地域外の乳牛とは一緒にしないなどの処置が取られた。酪農家からは搾乳牛の避難を先にして欲しいとの要望もあったが、リスクを最小に抑えるために育成牛から移動を始め、搾乳牛の移動はだいぶ後になって行われた。福島県酪が家畜の移動を始めたことで、県は後になってスクーリング検査などを含む移動方策を提示した。

育成牛の移動が始まった日の前日には福島県産原乳の出荷停止解除のための第1回モニタリング検査が県内で実施され、4月8日に会津地域の原乳出荷解除が発表された。モニタリング検査の結果、安全が確認されたのだ。

「会津地域での原乳解除も頭越しの発表だった。メディアから組合へ連絡が来たけれど、それまでは俺らも解除になったことを知らなかった。この時は県や国に対してものすごく腹が立ったね。出荷制限が解除になっても普通の状態じゃないかもしれないので、福島県酪としては一件づつ成分検査を行う必要があった。搾乳回数や餌の内容も変わり、成分や乳質などをちゃんと調べてからじゃないとこちらも受け入れられない。すぐにでも出荷したい農家の気持ちは痛いほど分かったが、受け取る側としてはとても不安だった」

さらに角田さんはこの原乳出荷解除に伴って、家畜移動が厳しくなったと当時をふり返っている。育成牛や初任牛は放射線測定機器で体表の検査を行い、基準をクリアすると移動が可能だったが、搾乳牛に関しては国からなかなか許可が下りなかったのだ。

避難区域の拡大

4月11日。津島地区では育成牛などの避難移動が始まり、会津地域では3週間ぶりに集乳が開始された。この日、屋内待避指示地域に残って乳牛を飼養し続けていた酪農家を驚かす発表が国によって発表された。

飯舘村全域、20km圏外の浪江町全域、葛尾村全域、川俣町山木屋地区、南相馬市の一部地域に居住が禁止される「計画的避難区域」の指示が出され、屋内待避となっていた田村市の一部、川内村、楢葉町、広野町、南相馬市の一部を「緊急時避難準備区域」にすると発表があったのだ。これは政府による避難区域の拡大を示すもので「計画的避難区域」とされた地域ではおおむね1ヶ月をめどに別の地域へ避難することが政府によってアナウンスされた。

この「計画的避難区域」とは年間の被ばく線量が20mmシーベルトに達すると予測される地域に指示され、「緊急時避難準備区域」となった地域では緊急時に避難あるいは屋内退避ができる準備が必要とされ、自力での避難が困難な妊婦や乳幼児などは指定地域から避難しておくことが望ましいとされた。

先が見えない状態ではあったが家畜避難が始まり、安堵の声が出始めた矢先の発表である。家族と別れて該当する地域に踏みとどまって家畜の世話を続けていた酪農家にとって、これら突然の発表は青天のへきれきだった。福島県酪にとっても避難区域拡大は予想をしてなかったことであり、今回もまた角田さんたちはテレビ放送を通じて避難区域指示を知った。そしてこれまでは自由に立ち入りができていた福島第一原発から半径20km圏内も新たに「警戒区域」として指定されるのではないかと、地元でささやかれるようになった。20km圏内はほとんどの住民が避難していたが、家畜を残していた畜産農家のなかには避難先から自宅へ通い、家畜の飼養を続けている人がいた。

住民であっても立ち入り禁止に

4月21日。政府はこれまで避難指示だった20km圏内を22日午前0時をもって「警戒区域」に設定することを正式発表した。住民であっても立ち入りは原則禁止され、違反者には10万円以下の罰金または拘留の罰則が定められた。

南相馬市小高区で父子二代にわたって乳牛を飼養していた渡部宏さん(57)は飯舘村大倉にある勤務先に一時避難をしながら、1~2日おきに自宅脇の牛舎へ通っていた。当時は搾乳牛6頭と子牛3頭を飼養していたが、地震の影響で市の上水道と井戸が使えず、水のない状態が続いていた。そのため牛へ飲ませる水を灯油ポリタンク10個ほどに入れ、それらタンクを積んだ軽自動車で勤務が始まる早朝を利用して自宅と勤務先を往復していた。

(続く)

*年齢は当時(記事執筆は2013年7月)